クリエイト速読スクール体験記 '22

理系研究者が取り組む速読

生長 幸之助

 この4月から新職場に転勤になり、山手線圏内から離れることになった。自らの成長が緩やかだったことも手伝っているが、5年もの長きにわたり通わせていただくご縁になった。区切りとしても良い機会なので、受講体験記を書きましょうかと申し出てみたところ、快諾いただけた。

 これまでクリエイトがロールモデルにしてきた人材と比べると、私はやや異色の存在だと思われる。司法試験・公認会計士・国家官僚などの高級文系職からは縁遠い身だ。そんな人物の体験記が、一風変わった層にも速読の魅力を届けられる一助になれば本望である。

なんで私がクリエイトに?

 まずは身分を紹介しておこう。私は化学領域の学術研究者である。「そんな人間、どこにいるの……」と、普通に生活されている方ならきっと思うことだろう。しかし世のスミッコには、意外と少なからず棲息しているのだ。化学業界は意外に大きなマーケットである。BtoCの業態が少なく、市井にはあまり露出してこない。だから意識されないだけなのだ。これを機会に「縁の下の力持ち」たる化学産業を意識頂けるなら嬉しいことだ。きっと吉岡里帆も喜ぶだろう。

 そんな自分が子供の頃からなりたかったのは、まさに「科学者」だった。誰も見たことのない世界を見たい、触れ続けたい——そんな純朴たる希望をもとに、大学で研究を続ける選択肢を選びとったことも、今思えば必然だったのだろう。

 しかし実際に研究現場で過ごしてみると、文章との切っても切れない関係性が理解された。

 研究を始めるには、先人がこれまで何をしてきたかを把握することが第一である。「二番じゃダメなんだよ」という世界観だ。準備と計画のために、膨大な記録(学術論文)を読まねばならない。しかもほとんどが英語であるため、日本人には抵抗が大きい。もちろん学術論文に限らず、新聞・メール・ニュース・ブログ・ソースコード・ビジネスチャットなど、あらゆる文字活字を参考にする。「研究目的達成のためなら、情報源は選ばない、ただし真贋の見極めは自己責任で」というのが、研究者の基本スタンスである。研究で得た新たな発見は、なるべく客観的に伝わるよう、これまた学術論文として発表し、世界に知を還元する。

 研究とはつまりこの繰り返しであり、理系研究者といえども「読み書き」が常に求められる。特にここで言う「読む」作業は、自らの想像を膨らませて血肉とすべく「世界を自分なりの視点で読み解いていく」ことそのものである。これは本質的にクリエイティブかつ楽しい営みだ。

 ただ年を経ると現場で手を動かすことも徐々に減り、マネジメントや運営業務などが主になる。そうなると、文系職とやっていることはほぼ変わらなくなっていく。理系・文系という括りは、ある程度のところまでくると、さして重要ではないのだなとも知る。

 とはいえ、謎のメールや謎の書類に正確に目を通して、一字一句ミスなく誰かのための言い訳作文をし、それにハンコを押さねばならない仕事が頻繁に降ってくる現実には辟易した。誰かがやらねばならないので仕方ない……と自らを説得(騙)しつつも、生産時間を削ってまでやらねばならない作業なのか、甚だ疑問に思っていた。こんなものはさっさとDXで効率化すべき話だろう……と10年以上前から思っていたが、全く整備される気配がない。おそらくこれは大学業界の構造的問題に起因している、と気づくまでに時間はかからなかった。

 そもそも自分は、文章を読むことにかなり抵抗を感じる人間だった。活字よりも数式や化学構造式のほうが肌に合うと思え、文系進路を避けたいがために理系に進んだようなところがある。そんな人間だから、「メールと書類はもううんざりだ……」となるのも必然だった。研究対象と真摯に向き合う時間も減り、万一の言い訳のために産みだされ続ける文章に目を通す毎日に、ホトホト疲れ始めていたのである。

 主観的環境が短期で変わりそうにない以上、自らを変えるための手を何かしら打つ必要があった。そんな藁をも掴む想いから、速読教室の門を叩いたのである。

速読って、どう身につければいいの?

 実を言えば、速読術への興味は昔からあり、可能ならば身につけたいとずっと思っていた。読解速度が3倍になれば、知識獲得速度も3倍になるに違いない―あまりにもシンプルかつロバストなこの仮説は、世の誰であろうと価値が瞬時に理解できる。加えて情報爆発が進めば、ありとあらゆる情報源に目を通さなくてはならなくなる。インターネットの発展と共に時代を步み、歳を重ねてきた世代にとって、作業時短化とスキマ時間の有効活用こそがビッグイシューになることも、半ば自明のことだった。

 しかし大きく立ちはだかったのが「速読って、どう身につければいいの?」という、この上なく芯を食う疑問だった。

 速読術を謳う書籍は、中高生時代に何冊か読んだ。総じて「目を鍛えて、広く見て素早く読み取れるようになろう」「文字を音に変えないようにしよう」という印象のものだった。「分速100万字」などという、再現性の低そうな“特殊能力”を紹介するものも一部にはあり、多くの通信教育・教室も、受講料が法外そうだった。仮に良い教室があったとしても、その信憑性を判断するエビデンスが入手できない。これに限らず地方在住ならではの情報格差に幾度となく悩まされてきた身からすると、速読術は高嶺の花そのもの。習得を諦めていたところがあった。

 しかし都心就職で産まれたやむにやまれぬ問題意識から、一念発起して再度、速読について調べはじめた。検討する中で、クリエイトが発行する書籍に行き当たった。控えめな「3倍速保証」も逆に誠実な印象をもたらし、敬愛する瀧本哲史氏が推薦文を寄せていたりして、検討優先度は上位に置かれた。とはいえ書籍を眺めるだけではどうにもピンとこない点もあり、どことなくもやもやした気持ちが残っていた。このまま一人で考えていても埒が明かない、悩むよりは経験、百聞は一見にしかずと考え、体験授業を受講することにした。

 受講しての率直な第一印象は、「これ、『タッチ・デ・ウノー』ですか!?」だった。

 もちろん、スタンスとしては全く異なっている。エンタメやゲームとしてではなく、解答時間を極限まで詰めてやろう、前回記録を毎回超えてやろうという克己的マインドを持つことが必須である。達成すべきはその先にある「速読スキルの獲得」であり、もっといえば「自己実現」や「課題解決力の向上」だ。一見してゲームにしかみえない活動を、そういう視点で捉えたことはかつてなかったため、新鮮そのものだった。いざ真剣にやってみると、集中力と頭をかなり使うこともわかり、自分がウィークポイントとする頭の使い方も何となく見えた。各スキルを伸ばすことで、読書時にここが改善されるんだろうな、ということにも割と明確なイメージが持てた。さらに一連の説明を受けることで、各訓練が認知科学理論に基づく科学的なものであり、反復の必要性を伴う類であることも理解された。書籍だけでは掴みづらかった「総体としてのトレーニングロジック」が、体験授業によって腹落ちしたのである。

 単に目を鍛えるだけではなく、情報処理速度と認知精度の向上を総合的に目指すトレーニングであり、速読スキルはむしろその結果としてついてくるものだ、とする思想的スタンスを強く感じた。この哲学には納得感と抜本的改善の可能性を感じたこともあり、まずはとにかく続けたうえで効果はあとで判断しようと入会を決めた。謳われる「3倍速保証」が達成されれば正直満足だし、受講料分の投資額などすぐ元が取れるだろう、ダメでも捨てられる金額だとも考えていた。

速読は、想像力を底上げする「身体性スキル」

 さて、新しいことを学ぶとき、独学すべきかスクール通いすべきか―これは多くの人にとって考えどころだろう。これについて私は、伸ばしたい・身につけたいものが「身体性スキル」に属する場合は、スクールに通う方がずっと早く身につき、機会損失まで加味すると安上がりになる、という考え方をしている。小難しい単語を使ってみたが、要は反復経験して、身体で覚えなければ駄目なスキルのことである。英語学習を例にとると、リーディングは非身体性スキル、スピーキングは身体性スキル。運動はすべて身体性スキルだ。こういったものは、文字/動画情報を眺めるだけだと、技能向上に結びつかないケースが多い。自ら理想を設定し、フィードバックをかけていくこともかなり難しい。他方、一度身につけてしまえば、なかなか忘れることがないものでもある。自転車の乗り方やスキーの滑り方も、そうそう忘れはしない。

 クリエイトで扱う速読は「身体性スキル」に属する。頭脳スキルだと思ってしまいがちだが、本質は全く違うと今では確信している。

 教室のブログを読むと「こんなスコア、同じ人間が出せるとは到底思えない」と思えて止まない事例が山ほど掲載されている。既に40年ほど人生を過ごしているが、自分と(数倍どころではなく)10~20倍の差があるクレイジースコアには圧倒されるしかない。

 「訓練を始めた年齢も遅めだし……」など言い訳がましく、未達への心理防衛線を張っていたクレイジースコア達だが、回数を重ねるうちに、いつの間にか、どういうわけか、いくつも達成出来るようになっていた。ものによっては、3倍速どころか10倍速で読めるようになった。なぜこんなスコアが出せるようになったのか、今でもさっぱり分からない。まったく想像の外にあった話である。自己分析を怠けていたわけではなく、「プログラムが良かったから」「続けられたから」以上の理由を探すことは困難だとすら感じている。とはいえ個々の訓練については、「あれはそういうことだったんだ」と成長後の振り返りではじめて理解可能になるものもあった。こういう経過も、身体性スキルの特徴だろう。

 訓練過程でもう一つ痛感したことは、追い込み方にも想像力が必要になるという事実だ。地力をストレッチするには、想像できない範囲の負荷を自らかけ続ける、という不可能性の高い作業が求められている。しかし独学で続ける限り、想像可能な負荷レベルに落ち着こうとする、無意識の下方圧力がどうしてもかかってしまう。場合によっては「どこに無意識のブレーキがかかっているのか」の自覚が全く進まないこともある。これこそが訓練効率を下げ、成長を停滞させる根深いポイントなのだ。しかし解決に必要な想像力が追いつかない。こういうときには、メチャクチャな負荷を設定したうえで、息も絶え絶えに自己適応させていくうちに、いつの間にかブレーキが外れていた……という荒療治が必要になることも多い。実施するには、客観的なフィードバックを適切なタイミングで与えてくれるメンターの存在が欠かせない。独学では限界がある話なのだ。

 そもそもクリエイトの訓練のように、情報処理力・認知精度のど真ん中を類例がないやり方で伸ばす場合、理想と現実のギャップを把握し、今後自分がどう変わっていくかを予想することはかなり難しい。情報処理スキルを身につけていく過程で、理想像や将来像を描くための想像力も、根底から底上げされていくからだ。「想像するだけ無駄なことを想像して、我流で上手くやろうとするよりも、とにかくこれに沿ってみてから考えるべき話かも」と随所で思わされることの多い訓練だった。

 正しく盲目的に継続できれば、想像外のことすら実現されて行く―文字に起こせば当たり前すぎる話を、速読訓練を通じて“Unlearning”できたのは収穫だったと思う。

非日常に「没頭」する機会をくれる教室

 多くの受講生が指摘しているとおり、真剣味と緊張感ある独特の空気に触れられること、傑出人材の隣に座らされて適切に煽ってくれることなども、教室通いの魅力であろう。クレイジースコアをたたき出す存在を、横目で比較しながら得られる生の情報は、活字ブログの数値情報とは雲泥の差がある。100メートル10秒で走れる能力がどれだけ凄いことかは、隣で一緒に走ってみるまで、本当は分からないのだ。

 また「訓練で集中力が改善された」というコメントを、受講生が多くしていることも特徴的だ。そんな教室はそうそうない。上記の雰囲気も一因なのだろうが、私は少し違う見方をしている。

 集中力の改善は、教室通いがもたらす、定期的な情報デトックス効果によるものだと私は捉えている。

 現代はとにかく情報が多く、一つ気にするとその数倍の情報が簡単に入ってくる。加齢にともない、能力が衰えていくにも関わらず、処理すべき情報だけは増えていく。そして人間は簡単にハングアップする。特定のものごとに集中する大前提として、過情報をいなす術を得る必要がある。

 私はもともと移り気なほうだが、一旦集中すると周りは完全に遮断できる。つまりもともと集中力は高い方で、訓練による改善度はさほど大きくない実感がある。一方の情報デトックスは、非日常に身を置くタイプの趣味(登山・水泳・海外旅行など)を通じて行っていた。振り返ってみればクリエイトの教室通いも、その機会の一つだったと言える。訓練時間の90分は息つく暇もなく、余計な話を仕入れたり考えることはできない。目の前のことだけに全力で取り組む必要がある。これによって集中力が鍛えられている……というよりは、子供の頃には誰しも出来ていたはずの、「没頭の仕方」を思い出すきっかけを得ていくのだろう。

 現代社会において「集中できる時間」というのは、教室にお金を払うぐらいのことをしないと得がたいのかもしれない。ビジネスマンの間で瞑想が流行っているのは、空白時間の確保が個人にとっていかに難しく、また重要であるかを物語っているのだろう。非日常に「没頭」できる時間を定期確保できることも、クリエイトに通うメリットではないだろうか。

理系こそ速読を

 速読訓練によって得られた「読書速度向上」という物理的効能も素晴らしかったが、「読書に抱く抵抗感の減少」という心理的効能のほうが、私にとってはずっと得がたいものであった。筋トレで筋肉をつけると、日々身体を動かすエネルギー障壁が下がり、気軽に運動してみようと思えて正のスパイラルに入っていく……これと似た話である。当初の問題意識であった、メールや書類に対する苦痛は、かなり軽減された。論文やウェブからの情報収集も、だいぶ速くなったと思う。とはいえ、前者はできるなら読みたくない、後者はなるべく読みたい、という気持ちそのものは変わっていない。これからはより一層、「どういう文章を読みたいか」という心の声を素直に聴いて、磨いていく必要があるのだろう、と感じている。これこそが求めていたもの、つまり「自分にとって大切なことを明確化させ、適切なリソースを注ぎ込めるようになる」ということなのだと理解している。

 こういった経験から、速読訓練の産み出す波及効果は、単に「文章が速く読めること」に留まらないと確信している。大げさでもなく、人生の質や生き方の密度にまで及ぶ話だろう。文章処理を負担に感じず時短化できるなら、本業にリソースを集中させてレベルアップできる。敬遠していた書物にも手が伸びるようになれば、自らの教養・想像力・世界観を広げる助けにもなる。「いずれ多くの仕事が機械やAIに代替されてしまうだろう」とする話がまことしやかに叫ばれる昨今だが、速読スキルを身につければ、人間のポテンシャル・伸びしろには、想像以上に大きな余地があるのでは?という希望的観測にも繋がりうる。

 「速読」は魔法でも超能力でもない。正しく取り組めば誰でも身につけられる、自らの理想を具現化するための手段だ。そんな普遍スキルとしての「速読」が広く認知されていくならば、とても素晴らしいことだと思う。

 受講アンケートにも記したが、理系人材は、20点の読書スキルを70~80点に持っていければ、実のところ必要十分だと思われる。活字に苦手意識をもつ理系人材であればこそ、ここには伸びしろしかない。私にとっては致し方ない事情もあったが、若いほど伸び率が良いというデータもある以上、「あと20年早く始めていれば理想的だったのに……」ということが、唯一の「後悔先に立たず」である。頭が柔らかくフレッシュなうちに、気軽な気持ちで触れてみるのがいいと思う。