体験記

クリエイト速読スクール体験記 '84~'88

『BTRメソッドによる速読トレーニングブック』より

「速く読まねば」という焦りからの解放

渡辺 佐和(主婦)

 私は、専業主婦である。三食昼寝付きとよく言われるが、万事几帳面で物事の優先順位のない性格の私にとって、一日は不思議なくらい忙しい。要領が悪くてグズなのだろうと諦めている。

 そんな私が、一人前に二人の子供を産み育てている。九歳の男の子と六歳の女の子なのだが、この子育てというのも、私にとって肉体的精神的に非常なエネルギーを費やす代物なのである。子供が成長していく過程で、いかに多くの社会との関わりの中で、母親は生きていかねばならないことか! その中でも、夫に言わせると常識という概念を持ち合わせていない私は、一所懸命やっているわりには、失敗ばかりして頭を下げてまわっている。

 しかし、私はグチを言ってるわけではない。炊事洗濯大好き人間だし、子供は実に愛しく、観察していてこれほど面白いものはない。ただ問題は、私がシナリオというライフワークを抱えているということである。シナリオライターになりたいというより、自分の思いをこめて書いたシナリオを、映画のスクリーンに映し出してみたいという夢をもっている。
 つぎつぎとライターとしてデビューしていく仲間たち--そんな中で、私は私なりのペースで勉強を続けている。

 物を書くものにとって、本を読むということは、人間が生きるために食物を摂るのと同じで、怠ればたちまち栄養失調の状態に陥ってしまう。人からいつも笑われるのであるが、私は大きなバッグを持って歩く。というのは、いつでも読めるように、少なくとも二冊は本が放り込まれているからだ。一人で乗る電車の中、美容院、子供を待つ車の中etc……。けれど、そんな細切れの時間では、なかなかおぼつかず、持ち歩くバックの中で、新しかった本のかどが擦り切れてしまうのもたまさかではない。

 私は、手帳に読まねばならない本、読みたい本を、頭に白い丸印をつけて書き留めている。読み終わるとそれを塗りつぶすのである。しかし、後から書き加えられていく本の数に比べて、塗りつぶされる丸印は少なく、増えていく白い丸印に私は溜め息ばかりついていた。

 いつしか私は、自分が人に比べて本を読むが遅いのだと思うようになっていた。
 本を読み始める時、何とかして速く読み上げねばならないと、まず、気が重くなり、読みながら、どうしてもっと速く読めないのかと焦燥感にかきたてられる……。

 そんなある日だった。私は、雑誌で速読スクールなるものがあることを知った。速読? 速く読む? 私はすぐ問い合わせの電話をかけ、説明会を聞きに行った。
 藁をもつかむ思いとは、このことだった。

 入学の後の第一回目の授業で、一分間の文字を読む速度を調べてもらい、私は唖然としてしまった。
私は、本を読むのが遅くはなかったのだ。むしろ、かなり高い速読力を持っていると言われたのである。

 けれど、まだ私は半信半疑だった。そして、週に一回ほど数室に通ううち、いかに自分が、自分の本を読むということについて無知だったかを知るようになっていった。
 人それぞれ個性があるのと同じように、本を読むということにはその人独自のスタイルというものがある。例えば、私はストーリーは頭に入りやすいのだが、人名を記憶するのが苦手らしい。そういえば、私は昔から人の名前を覚えられなかった。映画でも、ストーリーや会話は鮮明に覚えているのに、監督や俳優の名前はどうしても覚えられない。それを知ってから、私は意図的に人名を頭の中に叩き込むようにしている。
 教室では、記憶力や集中力の訓練の後、毎回一分間の速読スピードを算出する。ゴマ化しのない数値が、確実に増えていく。それが楽しみで通っているようなものである。

 私は今、「源氏物語」を読んでいる。恥ずかしながら、学生時代に挫折してそのままになっていたのである。気になっていたものの、読むのが遅いと思い込んでいた私には、とても手が出せなかったのである。
「源氏物語」を読む時、私は急いで読もうとはしていない。時々、和歌をくちづさんだりして楽しんでいる。

 皮肉なことに、私は、速読を始めてストレスから解放され、自分のペースでゆっくりと本を味わって読めるようになったのである。
 それでも、速読を始める前に比べて、かなり速く読み進んでいけるのは、教室でできるかぎりの速さで読み飛ばしていく際のリズム感みたいなものが、少しずつ自分のものになってきているせいではないかと思っている。

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「一日一冊の読書」を実行中

新屋敷 道保(団体職員)

 四十路の坂に足を踏み入れ、ふと気がついたら、いつの間にか体力が衰えはじめているのに気がついた。気持ちだけはまだ若いつもりでいるが、どことなく心と体が一体になれず、体が心についていけないのが現実である。

 今まで毎日夜の十時から十一時頃まで仕事をしてきた。世にいうモーレツ社員というところかもしれない。団体職員のため社員とは言わないが、これが私にとっては普通のことであり、長年このような生活を続けてきているとこれが当たり前になり、さほど苦にもならない。しかし今ここにおいて静かに自分を振り返って見たとき、過去の自分もよく見えるし、また、将来の自分もおぼろげながら見えてくる。その時、これから自分はどのように生きるべきかをふと考えてみた。

 今まではどちらかというと仕事オンリーという感じであったが、これからは、そういう中にも一つのゆとりが必要であるということを痛感した。そのために自分にとっては読書をすることが最も適切ではないかと感じた。元来、本を読むことは嫌いではなかったが、今の生活からいってその時間をみつけるのは至難の業である。その時考えたのは、時間がなくても短時間で本を読めればまことに好都合であると思った。もちろんその時は「速読」という便利な術があるとは全く知らなかった。まさか、それが現実になるとは夢にだに思っていなかった。

 そんなある日、何気なく本屋に入ったら、ふと「速読」という本が目に入った。あれ、と思い、おもわず手にしてみたら、一分問に一万字読めるとか数分間で一冊の本が読めるとか、まさに魔法使いのようなことが書いてあった。ふ-んと感心しながら、おもしろそうだから一度読んでみようと思い、さっそくそれを購入し、家でじっくり読んでみた。何か不思議な力がわいてくるような気がした。そしてこれは全く不可能ではないような気がした。なぜなら、よくテレビなどで億単位もあるような数字を暗算で一瞬のうちに計算をする人間離れをしたような人を見かけるが、これは奇跡でもなんでもなく、人間は訓練次第で相当なことができるという実証であると思うからだ。

 しかし、この速読についてはこの本だけでは思うようにいかないだろうとなかば諦め、いつの間にか私の頭の中からもこの速読という言葉が消え去っていた。
 ところが、まことに偶然とは不思議なものである。ある日曜日、家族で池袋のサンシャインビルに行き、水族館などを見て帰る途中、「速読スクール」と書いた看板があり、そこにパンフレットもあったので、あれ、と思い、おもわずそれを手にし読んでみた。忘れてしまっていた速読が私の脳裏に急によみがえってきた。

 そして、いてもたってもいられないような気持ちになり、激しい鼓動の高まりを感じた。さっそく手続きをしたいと思ったが、ここに一つの不安があった。それは、この忙しい中にどうして時間をつくるかということであった。それから、あれやこれやと考えをめぐらしたが、思うようにはいかず、そうこうしているうちに、いつの間にか数カ月が過ぎてしまった。山がそこにありながら一歩も踏み出せないのが実に歯がゆかった。そんなある時、もし自分がここでこれを断念したら一生悔いを残すのではないかという気がふとした。よし、時間はなんとかなるさと思い、思いきって速読スクールの門を叩いた。

 最初は全く思うようにいかず、単語記憶ゼロという惨めさであった。しかし、先生の慰めの言葉もあってかそれほど悲観もせず、ここでもそのうちになんとかなるさという気持ちでいた。そしてここに通ううちに、なんとなくここの雰囲気が自分に合うのを感じはじめた。それは先生方の親切は言うにおよばず、ここに来ると仕事のことも一切のことも忘れて訓練に熱中でき、なぜか心が休まる。普通これだけ一つのものに集中して取り組むと疲れを感ずるが、私にとってはそれが逆であり、ほっとした安らぎを感ずるのだ。

 ところで、私はここに通うようになって自分自身に一つの誓いをたてた。それは、一日一冊の本を読むということである。それは専門書であれ、推理小説であれ何でもかまわない。とにかく一冊をこなしてしまうということである。最初は実にきつかった。電車の中でも食事の後でも、とにかく寸暇を惜しみ読みふけった。しかし、慣れとは恐ろしいもので、それを続けていくうちに、それがそれほど苦にならず、むしろ何かの事情により本が読めなかった日などは実に残念に思い何か忘れ物をしたような気になり落ち着かない。そして、読んだ本については読書年月日、著者、本の題名、ページ数をノートに記録してあるが、それが毎日増えていくのがなんともいえない快感である。

 私はスクールではあまり優秀な生徒ではない。よくて週に一回、出張などで悪くすると月に一回も通えないときがあるが、私は自分にできる最善のペースで頑張っていきたいと思っている。八カ月ほどでまだ十六回目だが、電車の中などで本を読んでいる人と隣り合わせた時など、相手の方が一回ページをめくるうちに、自分が二回やそれ以上をめくっているのを見た時、ここに通ってそれなりの効果が出ているんだなと実感する。

 私はスクールに通うようになって、大きな財産を築くことができた。それは読書をするという財産である。私はあまり成績はよくないが、最後まで頑張るつもりでいるし、一日一冊の読書は将来にわたって続けていきたいと思っている。

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自分の可能性を信じること

横山 蔵利(早稲田大学社会科学部)

 電話のベルが鳴った。受話器を取ると速読スクールの松田さん(速読スクールの先生)の声だ。
 「今度本を出すので何か速読の感想文を頼みますよ、原稿用紙四、五枚で。よろしく」
 思わず「ハイ」と返事をしてしまった。安請け合いをしたが、後悔先に立たずだと思った。

 「こんにちは」と私はスクールのドアを開けて入って行く。教室を見るとそこには、中学生か高校生かよくわからない男の子二人と、女子大生風の髪の長い女性、銀行員のような雰囲気をもった男性達がすでに机にむかっていた。私はツイ、女性の隣に座ってしまった……。まもなく松田さんが入って来た。

 「では、カウント呼吸法から。三、二、一……」これがスクールの始まりである。一番最初にこの呼吸法を習ったときに、「これは気持ちを落ち着かせ、緊張を取るためのものです」と聞かされた。その時私は、「こんなもんで気持ちが落ち着き、緊張が取れるのなら……」と正直に感じた。しかし、確かに慣れてくると落ち着いた気分になるのだ。不思議なくらい。
 この後、いろいろなシートで目の運動や集中力などの訓練をする。そして、それから本を読み始めるのである。一講座は一時問半だが、大学の授業とは違い、非常に短く感じる。

 教室の雰囲気は、ほのぼのとしている。講師陣は必ずといっていいほど、生徒の名前と顔を覚えている。先生と生徒という感じより、友達という感じである。その証拠といっては何だが、特に松田さんは、先生と呼ぶと照れるのだ。彼は妻もいれば子もいるはずだが、その妻子に一度照れた顔を見せてやりたいものだ。

 私が速読に通おうと思ったのは、池袋の街で出会った一枚のパンフレットのおかげである。「理想の速読を実現……、新しい読書空間を創造します……」。などと一種の新興宗教のような甘い文句が目に入り、「そんなバカな、でももし本当だったら」とほとんどひやかし半分で通い始めたのである。
 そうしているうちに、そんなに真面目に通っていない自分でも、徐々にであるが速くなるのである。まだ全体の三分の一しか通っていないのに、いつの間にか私は五倍の速さで読めるようになったのである。これには自分でも驚いている。

 先日友達が遊びに来た。その時、自慢がてらに彼の読んでいた本の短編を十分間程度で読んでやった。
 「速いだろう」と自慢げに語る私。
 「実は一回読んだやつだろう」と友達。彼は絶対に信じないといっていたが、まあ、昔から信じる者は救われるとの言葉もあるように、自分の可能性を信じるものだけに与えられる特権なのである。速読は……。
 ちなみに、彼は速読の可能性はロバのように頑固に信じないが、彼女の言葉は信じていたみたいだった。しかし、数日前に彼はふられたのであった。これでまた彼の頭は、ロバというよりもマグデブルグの鉄球のようにかたくなになるだろう。

 最後に、何のために本を速く読むのかといわれたが、答えはひとこと、「わかりません」。確かに速く本を読んだからといってどうなるものでもない。しかし、問題はその特技を自分なりにどのように生かすかということだろう。速読の活用法は人それぞれ、千差万別だということである。

 自分はつねづね、人間の可能性は有限であり、無限であると信じている。なぜなら、自分の可能性を信じないと、この切ない世の中を生きていけないからである。勝手に、自分の限界をここまで、と決めてしまうから、それ以上伸びないのではないかと思う。やはり、自分の可能性は無限と信じたいものである。生意気だといわれるかもしれないが、可能性を信じて手始めに速読スクールの扉でも叩いてみてはいかがか。

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理屈ではなく、速く読むことに慣れる

徐 瑞芳(通訳・翻訳業)

 本の読み方は人それぞれ異なる。
 私の場合は、もともと、どんな内容の本であれ、一字一句かみしめながら読み進めていく、いわゆる熟読型である。そうしないと気がすまない、不安でたまらないたちである。時々、眼が活字の上をすべってしまった場合には、必ずもう一度その部分を読みなおす。当然、スピードは人並みはずれて遅い。まずいことにそれがすでに習慣化してしまっている。

 “これが自分の読み方なのだから”ではすまされなくなった。仕事がら、幅広い知識が要求されるからだ。政治・経済・文化・科学技術などあらゆる分野に関する書物を常に読んでおく必要がある。その量は多ければ多いほど役に立つ。専門知識を完璧に把握するのは無理としても、少なくとも専門用語とその大意くらいは理解できていないと、現場では使いものにならない。時には、資料を手渡されて、その場で眼を通しながらすぐさま通訳をしなければならないこともある。

 私の場合は、眼から入るものより、耳から入るものの方が頭に入りやすい。その原因は、眼が悪くて、細かい文字を十五分間も見ていると頭が痛くなってくることとも少しは関係があるかもしれないが、何よりも読むことがあまり好きになれず、その努力を怠っていたからである。

 仕事上の経験からいって、集中力を連続的に持続できる時間は一時間半。人の話を一言ももらさず聞きとり、それを通訳するという作業を連続的におこなった場合のことである。もちろんその間も徐々に低下しているだろうが、一時間半を過ぎると集中力は急速に低下する。二時間経つともうギブアップ。頭の中がウニのようになってしまう。少し休憩をとらないと続けられない。
 それならば、少し情況は違うが、読書についても最低一時間半くらいは集中できるはずである。時間をできるだけ有効に活用したいと思う。

 “訓練によって、ある程度のスピードアップは可能である”ことは確信していた。もちろん個人差はあるだろうが、“ある程度”以上を求めるのでなければ、それは可能であると思っていた。
 一種の芸当ともいえる超人的な特殊技能を身につけたいと考えるなら、また話は別であろうが、私にはそういう考えは毛頭ない。速読もその域までいくと、逆に疑問を感じるし、私には無意味である。

 理解力を深めること、集中力を養うこと、視野を広くすること、眼を速く動かすこと、文字や数字を速く見つけること、単語をできるだけたくさん記憶することなど、それぞれ確かに意味はあると思う。でも、私はこれを頭の体操や眼の運動だと思って、気軽に楽しんでいる。やっていて楽しいからそれでいい、それ以上深く考えようとは思わない。

 理屈ではない。要は、速く読むことに慣れてしまえばいい。これを実感できたのは、あるトレーニングをしたときのことである。
 トレーニングのメニューの中に、理解度が落ちてもよいから、とにかく自分の普通の速さの二倍、四倍、……で読む訓練がある。

 十分理解できていないのに、眼を先に進ませることに非常に抵抗を感じた。私のこれまでの習慣では“全体の意味がだいたい理解できる”とか、“ところどころわかる”ような読み方ではダメであって、“よく理解できた”という読み方でないとイヤなのである。何だか忘れものをしたような落ち着かない気持ちが残ってしまう。このトレーニングに使った文庫本を、自分で買ってもう一度読みなおしてみようかとも思った。そこは、あくまでもトレーニングと割り切るしかない。

 ところが、結果を見て、キツネにつままれたような気がして、思わず笑ってしまった。
 トレーニングの順序は、最初に自分の納得できる速さで読み、次に二倍、四倍、……とスピードアップし、最後にもう一度、自分が十分理解できる速さで読んで終了。時間は一回一分で合計約十分。それぞれ読んだ文字数を記録する。
 そして、結果をながめる。もちろん、最初と最後の理解度は同じと考えてよい。が、不思議なことに速さは三倍以上になっていた。

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何ごとに対しても集中力が高まった

田口 直利((株)田口工務店勤務)

 私は、正直に言うと、あまり本を読むことが好きではなかった。スクールに通う前には、本屋で買うのは、仕事関係のものと科学雑誌(写真が多く載っている)ばかりであったし、たまに文庫本などを買っても、同じところをいったりきたりしながら二、三週間ぐらいかかって読んでいた。

 そんな私が速読を習いたいと思ったのは、どんな種類の仕事でも同じであろうと思うが、常に新しい情報を取り入れるように、いろいろな書物に目を通しておかないとすぐに時代遅れになってしまうという危機感、「残業、打合せ、つきあい」などに時間を取られることが多いため、時間を最大限に有効利用したいという願望、そしてTVでよく放映されるように、一冊の本を五~六分で読んでしまい、周りの人たちを驚かしてやろうという不埒な思いからであった。そこで、まずは学校を探さなくてはと思っていると、学生時代の先輩が本校を推薦してくださったので、さっそく説明会を受けることにした。

 ところが、説明会を受けると、すぐに先の野望はもろくも崩れ去った。なにしろ、一分間の読書スピードが八百字。書きだし単語数が十くらいでは。これでは、人並以下なのではないかと打ちひしがれて、ともかくも地道に訓練をしていこうと心をいれかえることにした。

 授業を受け始めてしばらくは、まったくといっていいほど上達しなかった。本校は上級者も初心者もいっしょに授業を受けるために、倍速読書訓練等を行うと、ゆっくりといつものペースで読ませてもらっているうちはよいのだが、二倍、四倍とスピードを上げるように言われると、上級者の人たちがどんどんページをめくっていくのが聞こえてきて、「ようし、自分も」と思ってやろうとすると、今度は内容が取れないというようなことが続いた。こんなはずではと思い、家でもシート類を練習したり、速読を心がけてより多くの本を読んだ。

 そんなことで、一ヵ月ぐらいが過ぎたある日の授業で、いつものように「倍速」を行おうと意識を本に移して、二倍、四倍とスピードを上げていくと、今まで耳に入ってきていたさまざまな音がスッと消えて、本に意識が集中していることに気づいた。そして、意味を取ることのできる限界のスピードがグンと伸びたのである。この日から、受講回数が増えるごとに読書スピードが速くなっていき、また単語記憶訓練の書きだし単語数も順調に伸びはじめた。この時、自分なりに速読というのはこういうことかなと感じたのである。
 この感じをつかんでからは、今まであまり面白いと思わなかった訓練が面白くなり、スクールに通うことが楽しくなっていたのである。

 現在、読書スピードは、本の種類により一分問に五千~八千字、一時間ぐらいで文庫本一冊が読めるようになり、また仕事のために読む専門書でも三~五倍で読めるようになり、非常に助かっている。しかしなんといっても嬉しいのは、何を行うにしても集中力がついたことである。

 これからも、時間の取れる限り受講して、より深く、より広く、より速く読めるように努力していきたいと思っている。
 最後に、速読について自分なりに感じたことを以下に記しておく。
 (1)速読は、読字数の増加とともに理解力も向上する。
 (2)速読は、普通の読書と同様に、本の内容によりスピードが変化する。
 (3)速読は、どのような種類の本でも、その効果を発揮する。
 (4)速読は、より多くの本をより速く読みたいという願望と、実現のための努力さえあればだれにでも可能である。

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訓練によって頭をリフレッシュ

田川 潔(中央大学法学部)

 速読とは、一部の特別な能力を持った人にだけ可能な超能力的でいかがわしいものだろうと考えておられる方がほとんどだと思います。実のところ私も以前はそのように考えておりました。また、ちまたには「驚異」「右脳」と銘打った速読の本が多数出回っており、速読の社会的認識はまだまだ低いと考えています。しかし、ここで私が実際に体験し紹介するのは、従来の速読法とは性質を異にし、だれにでもできる正攻法の速読なのです。

 私が池袋にあるクリエイト速読スクールに入学したのは、大学受験に失敗した春のことでした。一般に受験生というのは、とかく受験勉強一辺倒で視野が狭くなりがちです。そこで私は、受験勉強以外に何か打ち込めるものとして、昔から少し興味のあった速読を選んだのでした。

 クリエイト速読スクールには、入学する人のために説明会が設けてあり、私はそれを受講してみて、こちらの授業が堅実で、しかもバラエティーに富んだものであるのに驚きました。たいていの速読訓練は、形式ばってはいるものの、単なる眼球運動訓練だけにすぎないものが多いと感じていたのですが、こちらの授業は興味深くしかも充実しており、あきっぽい私にも九〇分という授業があっという問に過ぎてしまったような感じがしました。

 私は予備校の帰りにほんの息抜き程度の軽い気持ちで受講することにしたのです。受験生が予備校の帰りに九〇分もの貴重な時間を速読に費やすなんて愚かだと思われるかもしれませんが、私の場合は、速読訓練が頭をリフレッシュするための役割を果たし、家に帰ってからすぐに頭を切り替えて勉強することができるようになったのです。むしろ、速読に行かない日は、帰宅しても予備校の延長という感じで頭のチャンネル切り替えがなかなかできず、かえって能率の悪いこともありました。

 私は五〇回コースに入りました。五〇回の授業は大変だと思われるでしょうが、実をいうと、私にもはじめのうちは速度も理解度も全く伸びない時期がありました。しかし二〇回くらい訓練を受けると一種の壁のようなものを突き抜け、軽快にかつ流れるように本が読めるようになりました。この感覚を言葉で表現することは難しいのですが、地道に努力をしていれば必ず体験することと思います。

 ところで、この本を手にしている方の中には受験生もいると思います。一般に試験では限られた時間の中で理解力を発揮していく必要があります。これに対処するためには、素早い情報収集能力と集中力が必要だと思います。国語や英語などの問題は年々長文化しており、人より速く理解することが、成功の鍵を握ってしまっているのです。まさにここで要求されているのが速読の能力なのです。

 しかし私の場合は、もう一つ速読によって役立ったことがあります。それはイメージ訓練の応用なのです。簡単にいえば、文章を読んでそれを自分の頭にイメージ化して描き出し、内容を定着させる訓練です。一見無味乾燥とした訓練のようですが、たとえば一冊の本を読もうとする場合に、その本のまえがき、目次、あとがき、カバーや帯に書いてある内容を読むことによって、その本の内容がイメージ化されて概略が読めるようになります。私はこれを試験問題に応用し、問題に付加されている説明文や設問を読んでイメージ化することによって、問題に対する理解力がかなり増加しました。

 現在、速読に関する学校や教材はたくさんありますが、今のところこれが一番よいという定番のようなものはありません。クリエイト速読スクールは、名称の通りスタッフのみなさんが試行錯誤しながら創意工夫をこらして新しい訓練法を開発しています。

 最後に、これから速読をはじめる方々に、私の体験を通じて少しアドバイスさせていただきたいことがあります。
 まず何よりも大切なことは、決して懐疑心を抱かないことです。「速読なんて本当にできるのかな」と半信半疑で訓練しても上達しないからです。
 二つめに、はっきりとした目的意識を持つことです。たとえばビジネスマンの方なら人より多く情報収集したいとか、受験生なら参考書をより速く理解したいなどです。
 三つめには、短時間でも毎日集中して訓練することです。特に受験生の場合は、あくまでも受験勉強が第一であることを念頭に置き、本末転倒にならないように気をつけることが大切だと思います。