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この記事は、技術士(衛生工学部門)の矢野さんによる、速読体験記です。
矢野 郁夫
理想は晴耕雨読
50歳を過ぎてから時々焦りを感じるようになった。人生の折り返し地点を過ぎており、何かし忘れているような、これから始まるものが目前に迫っているようなそんな焦りである。それはそれほど遠くない将来、定年後の第二の人生設計への期待と不安からくるように思う。私の場合、その設計コンセプトは晴耕雨読である。晴耕雨読のイメージは、悠々自適、農耕を基本として読書や詩歌、芸術を楽しむというものである。
晴耕。晴れたら耕す。6年前から畑を借りて休日には野菜作りを趣味としている。畑は100坪ほどあり広い。畑での野菜作りの大半の作業は土を耕すことと雑草取りだ。辛抱と体力ばかりを要求され、過酷ですらある。それなのに地面に接して土の匂いを嗅ぎ、一日中働いて休日を終えると普段の疲れと入れ替えに別の充実したものが心に溜まっている。農耕では収穫の喜びのほかに、別の形で得るものが大きい。晴れた日は身体を動かし汗をかくことだ。
雨読。雨が降ると畑に出られない。土いじりは出来ない。雨の日は読書が良い。雨音を聞きながら冷んやりした高い湿度に身を委ねていると心が落ち着く。遠い昔の少年のころ、雨の日に読書をしてその物語にどっぷり浸ったことを思い出す。傍らに本があることで、これからの生活は張りのある充実したものへと導かれてゆくのではという期待感がある。また、雨読は学問をするということでもある。ある人に言わせると、学問は究極のエンターテイメントであるという。知的好奇心を満足させれば心豊かになると信じる。
速読の効果は当然として
しかし、私の読書の現実はそんな理想からかけ離れている。仕事の忙しさを理由に実用に供する本しか手にしてこなかった偏りからか、読書が得意ではないのである。本当の読書の醍醐味を知らないと思える。目の衰えないうちに出来るだけ本を読んでおきたい。読書の醍醐味を知っておきたい。そんなときクリエイトのホームページに出会った。
このホームページの中には多くの体験文が載せられている。体験文のほとんどには速読の成果は当然として、予想以上の成果が書かれている。自分で驚く理解度だったり、読書に没頭する喜びだったり、仕事が効率的に速くなったなどである。思わぬ成果を得てハマルとか、ブレークスルーといわれる状況を体験している。達成感を得る喜びは癖になり、ますますのめりこむ、そんな状況が読み取れた。
実際の速読練習の過程では生々しく自分の能力の現実に直面し、自分自身との戦いを強いられる。ここでは乗り越えるべき目標は自分の中にある。競争社会が問題視される中で、真の競争相手は自分だというテーゼが面白い。
私もそれを体験したいと思った。
この教室のトレーニングは、科学的であり論理的である。トレーニングジムで身体を鍛えるように、視覚機能や脳細胞を鍛えることで速く読むことを可能にして行く。視野を広げて文字・文章を見る、その文字・文章など語の呼び起こす心のイメージに注意を向けて、そこから理解・記憶に結び付けて行こうするものである。
「矢野さん、新書だったら訓練しだいで30分以内で読めるようになりますよ」松田先生の言葉は今でも私の脳に焼き付いている。その時点で私は「それはすごい。でも、そんなに速くならなくていいな」と思っていた。そのせいだろうか速読訓練の成績は停滞している。軽めの新書でも1時間以上かかっている。年齢のせいもあるだろう、まだ満足のいく読書速度には到達していない。視神経、関連する脳細胞が鍛えられれば速読は上達するはずなのだが。通い始めて8ヵ月、諦めないで続けようと思う。いつか自分でびっくりする体験が待っていることを楽しみに。
文章の仕組みを学びたかった
文演を受講した理由は、文章の仕組みを良く知ることで、速読の上達に繋がると思えたからだ。
私はビル管理会社に勤務する、建築設備を専門とする技術者である。業務の性質上、多くの業界の様々な人々との交流がある。関係者間の的確なコミュニケーションを図るためには、読みやすい正確な文章が求められるし、また、異業種からの多くの情報の収集も必要である。速く読むこと、速く正確に的確な表現で書けることは仕事の質を向上させる。文演を受講することで文章への興味が増して文章を好きになれば、仕事はさらに楽しくなると思えた。
文章を書くには才能よりも前にまず技術
文演から学んだことは、文章を書くには才能より前にまず技術があって、その技術をマスターすることで文章を楽に分かりやすく書くことが出来るようになるということである。文章には読みやすく分りやすいものとそうでないものがある。今まで、それはなんとなく感じていたのだが、言葉でうまく説明できないでいた。
文演の教材には受講生が書いた多くの文章が使われている。それらの文章は誰しも陥りそうな初歩的な欠点のある文章から、上手な文章の中に高度であるがゆえの問題点まで多くの例題文が使われる。それらの欠点、問題点を見つけ出すことが学習なのである。初めのうちは、その悪い要因を思うように指摘することが出来なかった。それらを一つ一つ具体的に解説されることで、良くわかるようになった。教材の中の文章には上手で、思わず引き込まれるうまい文章がある。だが、そんなところにも落とし穴がある。レベルの高い例題文になると、どこに問題点があるのか説明を受けるまで分からない。みんなとディスカッションし、松田先生の解説でやっと理解できるようになった。
なるほど、自分で文章を書く場合にこれら要点を意識的に心がけるようにしよう。文章は素直に順序良く書くことでその人となりが出て自然に個性的な文章になるものだと感心した。個性を出そうなどと肩に力を入れてはいけない。対象を良く観ること、経験を尊重して、作文技術・手順に素直に従うことこそ重要だと思えた。ここで学んだことは、文章を書く上で心がけなければならないことばかりであった。文章というものは自己を表現する道具として適正に使うことで想像を超える力になると改めて思えた。
文章を書くことを楽しめるようになった
(最終回授業前)
全8回の授業で宿題は1回だけである。しかし、これが難物であった。約8,000字のテキストを750字に要約するものであるが、この約8,000字、中身が濃くて端から端まで重要に見えて、すべての内容に味があり、重要に思えるのである。これまで私の普段の生活で要約をする場面はあまりない。そもそも要約の目的、意義を考えたことなど全くなかった。目的意識が極めて希薄なのである。どうすればよいのだろうという感じである。取り組み始めて、要約をすることは文章を凝縮することで、作者の意図を理解し、受け入れることだということに気づいた。要約は、技術であり、手順があると松田先生はおっしゃる。
技術、手順は職業柄、私が大切にしている言葉なので、こんな場面で登場することが嬉しかった。文章を読んで手順に沿って内容を把握し、キーワードを含む文章に線引きをする。だが、これは重要ではないのか、この文も入れたい、この文は気に入った言葉だ。などと考えていくとなかなか短くならない。埒があかないので、思い切って、どんどん削ってみる。そこで、パソコンに打ち込んで文章になるようにつなげてみる。そうすることでやっと要約らしい形になった。
(授業後)
講評での松田先生の一人ひとりへの指摘は、まったく予想もしないものだった。私の場合、あれだけ考えたにも関わらず文章の読み方がまだ浅いと思った。言葉の意味や使い方を大切にしなければとも思った。
それにしても文章は怖い。言葉を大切にして常識をもって隙のない文章を心がけなければならないと思った。
予想以上に楽しいもの、ためになるもの
「文演」は予想以上に楽しかった。私は53歳で最年長、最年少は海外留学計画中の利発な女子高3年生。司法試験を受験中の人、公認会計士を目指す人、文章と何らかの形で格闘している人ばかり合計18人、こんな環境で学校時代に最も苦手な国語に関する講義を受けたのだ。緊張した。文章について当然学校で教えられてもいいのにと思えることを、ここで初めて聞くことが新鮮だった。若い人たちから、思いもよらぬ鋭い意見が多く出て感心させられた。刺激的で少し悔しかった。予習に十分時間をかけて出席したときは楽しかった。予習に時間が取れない授業では内容を見失いそうなこともあった。
幸運にも、欠席せずに受講できたことは良かったし不思議な経験になった。18人全員が最後まで出席した。この授業は出席したくなる工夫が随所になされており、進化し続けているのだろうと思った。これからの私の文章が変わる予感がする。実際、業務で文章作成を楽しめるようになったし、また、手際よくなったように思う。文章に対する心構えが変わってきたようだ。
さらに、速読の上達につながることも期待している。
こんなに有意義な講義はこれからも続けていただいて、一人でも多くの人に感動を届けていただきたいものだ。心から応援しています。