体験記

クリエイト速読スクール体験記 '05

2005年発行パンフレット掲載
知のパラダイム ~クリエイトとの出会い~  --- 慶應義塾大学商学部3年 ---

大西 隆

<1、クリエイトへの道>

 クリエイトの門を叩いたのは今年の3月でした。
 動機は、第一志望の研究会が要求する莫大な読書量をこなすため。経済学、計量経済学、歴史小説、古典、諸々の書籍を読破することが要求されるゼミです。「速読ができたら研究会の要求する高いハードルを越えられるに違いない」と思い、速読について色々と調べたところ、クリエイトという教室を見つけたのです。

 体験授業後の説明のときに、受講するにあたり「いつ頃から効果が出るのか」などの不安要素について相談したところ、クリエイトの謙虚かつ生徒への真摯な姿勢を感じることができ、安心して受講を決意しました。

<2、クリエイトの効果>

 クリエイトのプログラムの詳細は他に譲るとして、効果について述べます。
 直截的に申しますと、速読力、論理構成力、理解度、記憶力が伸びて、集中力が飛躍的に上昇しました。新田次郎や司馬遼太郎の歴史小説なら2時間もあれば読破できるくらいのスピードです。ただ漠然と読むだけではなく、シチュエーションを想像しつつ、人物を記憶しながら読み込めるようになっています。また、集中力が上がったことで、専門的な書物を読むにあたっても、3時間は簡単に集中して取り組むことができています。

 クリエイトの効果により、図書館で借りた本は概ね読破して返却できるようになりました。1カ月に最低でも20冊は借りられるようになりました。また、購入した本もほとんど読破できますし、気になる本は立ち読みで済ませられるようになりました。以前では考えられない進歩です。現在受講中(25回)なので、まだどれだけ成長できるかが楽しみです。

<3、最後に>

 クリエイトで過ごす時間は人生の中で、僅かな時間に違いない。しかし、ここで学んだことは今後の人生に大きく貢献してくれると思います。何故なら、クリエイトで学べることはその場しのぎの知識ではなく、普遍的に役立つものであるからです。速読と同時に文演を受講して分かったことですが、クリエイトでは「生きるために必要な知的技法」を授けてくれる場所だということです。クリエイトは自分というものを大きく成長させてくれる場所であること確信しています。

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2005年発行パンフレット掲載
読書が心底楽しくなった --- 電鉄会社勤務 ---

高橋 博明

 会社の仕事も一区切りがつき、少し自分の時間を持つことができた時だった。何か自己啓発のようなものをしたいと考えた。資格取得のため予備校に通うことも考えてはみたが、速読を身につけることができれば効率よく仕事ができるうえ、様々な場面で応用が利くはずと思った。仕事では報告書など文章と接する機会が多くなり、どうにか克服できないものかと考えていたことも後押しした。早速インターネットでスクール探しを始めた。いくつか候補があった中でクリエイトを選んだ大きな理由は、SEGと提携していることだった。SEGの実績、評判は私が高校生の時から高かった。クリエイトの速読授業がSEGの生徒に大きな影響を与えていることを知ったのは大きかった。

 クリエイト速読スクールに決めてからは受講体験記を中心にホームページをくまなく読んだ。誰もが自らの状況に応じて確実にステップアップしていく過程が伝わってきて、読書の仕方を根本から変えてみたくなった。そうはいっても果たして自分にできるのかどうか悩んだが、まずは「体験レッスン」を受けてから判断することにした。「体験レッスン」では、90分間驚くくらい集中できたこと、教室の和やかな雰囲気の良さにも惹かれ、期待を持ってその場で申し込んだ。

 訓練が始まり、最初に効果を確認できたのは、サッケイドシートである。数回目で視野が広がり、文字がスラスラと流れいく感覚がわかった。以前と大きく変わったのは、文字を読むのではなく、行を読む感覚が身についたこと。また、ページ全体が視界に入り、徐々にではあるが先の行を意識することができる。文章を読むのが非常に楽になった。

 その他記憶力や処理能力向上など目的に応じて様々な訓練が用意されているが、それらは全て基礎トレーニングだと考えている。スポーツでいうと筋力トレーニングやイメージトレーニング。スポーツでも指導者、コーチに恵まれることが伸びる要素であるが、速読においても正しい指導を受け、それを実践することにおいては同じであると感じた。

 訓練を初めてもうすぐ40回となるが、読書スピードや訓練の成績は受講当初と比べて相当伸びた(体験時706字、33回目『人生の目的』7150字)。しかし、クリエイトのレッスンは常に自分の現状より、少しの負荷がかかるように設定してある。常に届きそうな目標が先に見えるので、到達したことのうれしさ以上に次の目標を達成したいという意欲の方が大きい。おそらく、受講が終了するまで満足することはないだろう。まだまだこれからという気持ちで通っている。

 最後にクリエイトに通って最もよかったことは、読書が心底楽しくなったことだ。日常生活においても読書を欠かすことができなくなった。学生時代に、読書には無限の可能性があると言っていた友人の言葉を思い出す。今となってようやく彼の言葉の意味がわかるようになった。少し遅れはしたが今後読書を大いに楽しみたい。

2006年体験記『速読と文演で読書にメリハリが』

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2005年発行パンフレット掲載
速読で得られたもの --- 会社員 ---

瀬古 香織

1、読書と私

 小学生から高校生の頃まで、本を読むのは好きではなかった。読むのが楽なマンガばかり読んでいた。ところが、大学に入り、長い通学時間に単行本を読むようになってからは、どんどん読書が好きになっていった。
 しかし、本格的に読書をしようと思ったのは2年ほど前のことである。当時、私には大きな悩みがあった。自分の力ではどうにもならないことだった。いつまでも落ち込んではいられない。何とかしてこの悩みから脱出しなくてはならない。そんなとき、ある1冊の本に出会った。

 この本には、人生を前向きに生きるヒントが散りばめられていた。帰りの電車の中で私は一気にこの本を読んだ。考えが根本から変わった。あれだけ落ち込んでいたのに、立ち直ることができた。本は力を持っていると感じた。本は人の考え方や、生き方までも変えることができる。これからはもっと多くの本を読んで人生を豊かにしていこう、とその時私は決心した。

2、速読を学ぶきっかけ

 決心したのは良かったが、社会人は学生のように自由な時間がない。なぜ時間のある学生時代にもっと本を読まなかったのか、と過去を悔やんでも、過ぎた時間は戻ってはこない。それならば、いっそのこと速読を身につけて、限られた時間で何倍もの読書をすればよいのではないか、と思いついた。早速、私はネットで速読教室を調べてみた。

 いくつかの教室が候補にあがった。その中で場所も通いやすく、受講料も手ごろなクリエイトの体験教室に行ってみることにした。教室では、小学生から社会人に至るまで多種多様な生徒が受講していた。それぞれが、それぞれのペースでレッスンを受けている。これなら私もマイペースで続けられると思い、受講を決意した。

3、速読の効果

 受講して早半年が経った。その効果は意外なところに現れた。
 まず、新聞を読むのが速くなった。以前は、一文字一文字をじっくり目で追っていたが、今ではまず記事全体をざっと見て、次に必要なところをブロックごとに読んでいる。例えるならば、記事という土地を、以前は鋤と鍬で掘り起こしていたが、今はショベルカーでざっくり掘り起こしているような感じだ。

 次に、メールを読むのが速くなった。今の仕事は受信メールがかなり多い。1日に数百件ものメールが届くこともある。以前は半分ほどしか読めなかったメールも、今ではそのほとんどに目を通すことができるようになった。
 もちろん、仕事以外にも効果は現れている。読書量も以前の倍以上になった。速読のレッスンの帰り道に本屋に寄っては、2、3冊本を買っているので、家の本棚には収まりきらなくなってしまった。だが、まだ私の満足の行く読書量には至っていない。読みたい本も数え切れないほどある。
 今、私は、新しい本棚を買うことを計画中だ。

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1年間で千冊を多読した理由 --- 東京工業大学理学部第I類合格 ---

荒木 健友

クリエイトの新刊書『即効マスター らくらく速読ナビ』(日本実業出版社刊)に、荒木さんの体験記のダイジェスト版が掲載されております。

<速読を始めた理由>

 速読を始める理由は、受験のためとか資格のためとか本が好きだからとか、いろいろあると思います。ぼくの場合は、表面上は、受験のためという理由にあたります。現役での大学受験に失敗して、その浪人中の1年間、クリエイト速読スクールに通ったからです。

 しかし、その本当の理由は浪人という時代を少しでも前向きに過ごしたかったからかもしれません。浪人ということを、本人が自覚していようがいまいが、周囲の視線は蔑みとも憐れみともとれるものが大半です。今考えるとそうした視線は自分で無意識に作り出しているともいえなくはないのですが、自分だけが前向きであろうと思っても、周囲がそれを許してくれない雰囲気は確実にあると思います。受験に一度失敗したという事実は厳然と存在しているからです。そこで、そうした雰囲気から解放されるにはどうすればいいのか考えた結果、本をたくさん読もうということになったのです。

 ところが、本をたくさん読みたいと思っても、読む時間もなければ、本を何冊も読む忍耐力もありませんでした。高校のときからそうしたジレンマが心の中に溜まっていました。高3のときには、速読をやろうという決意がありました。それを行動に移せたときが、結果はどうであれ、受験が一段落した時だったのです。だから、元々、受験のためにクリエイト速読スクールに通い始めたのではありません。純粋に本が読みたいという気持ちが半分と、受験の煩わしい重圧から解放されたいという気持ちが半分あったと思います。結果として受験に一役買ったということで、今回はこうした場所に文章を書かせてもらうことになったのです。

<速読は魔法じゃないの!?>

 ぼくも、初めは速読は魔法のようなものに違いないと思っていました。テレビで紹介されている速読がそうした誤解を産む原因だと思います。目をカッと見開いた人があさましい姿でページをめくっていく。そうした映像だけが流されて、速度だけが強調されています。それを見た視聴者が速読を魔法のように思うのは無理のないことかもしれません。どんな速度で読んでも本の理解度が変わらないとしたら、速く読めば読むだけいいでしょうし、まさしく魔法です。

 しかし、普通に考えても分かるように、速く読めば読むほど、どうしても理解度は下がっていくものです。だからこそ、訓練でその下がり具合を縮めたり、本の内容の理解と速度を天秤にかけながら調整していくことを習得していくのです。

<受講ペースについて>

 初めの2週間は毎日2回受講し、次の2週間は毎日1回受講しました。だんだん様子を見て回数を減らしていきました。また、週に2~3回のときに文章演習講座を受講したことも外せません。結論を言うと、初めに集中して受講し、だんだん回数を減らす。そして、読解力を上げるために文演をはさむ。こうした受講の仕方は効果的だったと思います。もちろん、これはぼくの受講ペースなので、人によっては、文演だけ受けてもいっこうに構わないでしょうし、速読のトレーニングだけ受けても、十分な効果は得られると思います。

<2回の変化について>
1)受講から半月後

 1回目の変化は突然起こりました。それは速読受講後、最寄りの駅から家へ、自転車で帰る途中のことでした。自転車に乗って見える景色が普段とまったく違っていたのです。今までの視界は無意識のうちに一点に集中していました。しかし、そのときは空も地面も左右の家々にも注意が行き届いていました。景色全体が目に飛び込んできたのです。また、障害物で道が狭くなっているところを自転車で通れるかどうかの目算に確信が持てるようになっていました。今までは10㎝は左右から離れて走らないと危険だと思っていたところが、1cmでも大丈夫だと思えるようになりました。それは視界の全体に注意が払えるようになったからだと思います

2)3~4カ月後

 速読の上達を実感したのが自転車に乗っているときだったのは意外だと思われるかもしれません。速読だから本の中でしか使えないと思ったら、それはまったく違います。2回目の実感はジワジワときました。1回目とは違い、本を読んでいるときに少しずつ変わっていきました。目に見える変化ではありません。頭の中での変化です。それまでは目に飛び込んでくる文章の断片がバラバラに頭の中に飛び込んできていました。バラバラになっているものをとにかくそのまま受け入れようとしていました。しかし、この時期には文章が一本の筋を持って頭にきれいに納まっていく、そうした変化が起こりました。いや、起こるように試行錯誤を重ねていったというほうが正しいでしょう。試行錯誤を重ねて、はじめて、あやふやだった感覚が確信に変わっていったのです。

<訓練について>

 クリエイト速読スクールの訓練は速読をしていく上での土台作りのようなプログラムです。ある目の動きができなければ、その上には進めないというプログラムではありません。落ちこぼれることをできるだけ少なくしていくために、まず「読書力」を身につけさせるプログラムになっていると思います。

1)目を速く動かす力

 目を速く動かす力はなぜ必要なのでしょうか。人によっては、目が速く動くと、字が速く追えるようになって、速読できるようになるから、と言う方もいると思います。しかし、実際にトレーニングしていくと分かると思いますが、人が目で追うことのできる速度はある程度限界があります。それだけでは行きづまってしまいます。
 そこで、視野を広く保つことが必要になってきます。視野を広く保てば、目をそれほど速く動かす必要もなくなるのです。本の読み方が、縦一行ごとに目を上下させる読み方から、広い視野で横にずらしていく読み方へと、変わっていきます。

 それでは、なぜ目を速く動かすトレーニングをするのでしょうか。それは、目の動きの限界を上げていくためです。すると、目を揺らすという動きができるようになります。上下にぼやけている部分があるときは目を上下に揺らします。本を読んでいくときも常に微妙な揺れでもって横へスクロールするように、読み進めていきます。微妙な揺れによる視界は、普段の生活の視界とは明らかに異なります。池袋駅の人ごみの中を、この微妙な揺れを持った視界で歩いてみました。すると、自分の周りの人の流れが、カッ、カッ、カッ、と1コマ1コマゆっくりと動いている。そう見えました。このことは、目を揺らすことで、一瞬一瞬に認識しようとする集中力が上がるからではないかと推測できます。この視界を認識する集中力が速読と関係していると思います。

2)集中力

 速読をする上で集中力は欠かすことのできない能力です。ぼくがクリエイト速読スクールに通っていて、しばらく経ったとき、こんな経験をしました。

 予備校の自習室で勉強していたときのことです。その場所はたまたま混雑していて、椅子に座っていても、その周りには頻繁に人が通るし、ざわざわとした話し声もありました。しかし、そのときは今までの自分とは違いました。周囲の猥雑さが自分の身体をすり抜けていくように感じました。参考書に意識が向かっていき、なんとも落ち着いた気持ちで勉強することができました。

 今までなら、前を通る人の足音に反応したり、周りの話し声を不快に感じたと思います。しかし、気持ちを穏やかにすること。それが集中のために必要だと気がついたのです。速読スクールではカウント呼吸法という呼吸法をトレーニングの1つとしています。それは、穏やかな気持ちを引き出すためだと思います。今回は前回よりいい記録を出してやろうとか、このトレーニングは苦手だ、といった感情から一歩後ろに引いた、気持ちの穏やかさが持てるようになります。

3)発散力

 集中力の反対に、発散力という力があります。聞き慣れない言葉だと思いますが、数学者の森毅さんの著作の中で出てきた言葉です。簡単に言いますと、意識をあっちこっちへ散らす力のことだそうです。なんだ、普段から発揮しているではないか、と思うかもしれません。だけど、あえて、発散力を取り上げたのには訳があります。
 発散力とは、いろいろな方向へと想像力を働かせていく能力であるともいえます。例えば、俳句や詩といった、とても短い言葉で表現されたものでも、感銘を受けるのは、短い言葉からあれこれと想像をめぐらせていくからではないかと思われます。1つの言葉に対しても、人によって、意識の広がり方は違います。発散力のある人は言葉に対し、幅広い意味を見出し、思いもよらないようなつながりを見つけるかもしれません。

4)集中と発散のバランス

 一概に集中力と発散力どちらが大切かはいえません。ただ、速読においては性質上、集中力が必要です。集中力を磨いて、初めて発散力の大切さも分かると思います。2つの力を同時に発揮することはぼくにはできません。速読する上で、集中と発散をバランスよく調節すること。それが理想かもしれません。

<自主トレ-ニング>

 ぼくはクリエイト速読スクール以外の訓練として、多読を心がけてきました。体験レッスンの時に「家で何かすることはありませんか?」と質問したときに、「目を動かすようなことよりも、たくさんの本を読んでください。受験生だから参考書が入ってもかまいませんから、たくさんの活字を浴びてください」と松田先生に言われたからです。また、もうひとつこの作業に移行していく原因となったのが、文章演習講座です。文演に関しては他の体験記で皆さんが詳しく説明していますので、ここでは取り上げませんが、「読解力が上がる」の他にもうひとこと触れさせてもらいますと、文章を書く人の目線に立った本の読み方を教わったと思います。

1)多読の目安

 多読の目安が何冊かは分かりません。人によっては、読書は冊数ではないというかもしれません。少ない冊数でも、1冊から深く学び取れば、十分多読といえるでしょう。しかし、速読を学ぼうという人にはある程度本をたくさん読むことをオススメします。クリエイト速読スクールで得た技術をより多く実戦で試すことができ、まだあやふやな技術が板につくようになります。

 ぼくはこの1年間で千冊を越える本を読むことになりました。どんな本を読んできたか少し挙げてみますと、『青春の門』全6巻(五木寛之著)、『氷点』『続氷点』各々上・下巻『夕あり朝あり』『塩狩峠』(三浦綾子著)、『日本のこころ』(岡潔著)、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』上・中・下巻(谷崎潤一郎著)、『ガリヴァ旅行記』(スウィフト著/中野好夫訳)、『読むクスリ』全37巻(上前淳一郎著)、『ご冗談でしょう、ファインマンさん』上・下巻(R.P.ファインマン著)、『精神と物質』(利根川進・立花隆著)、『TUGUMI』(吉本ばなな著)、『学問の創造』(福井謙一著)、『封神演義』上・中・下巻(安能務著)、『こころの処方箋』『働きざかりの心理学』『日本人とアイデンティティ』『青春の夢と遊び』(河合隼雄著)、『異邦人』『ペスト』(カミュ著)、『プリズンホテル』全4巻『王妃の館』上・下巻『天切り松闇がたり』1・2・3巻(浅田次郎著)、『私の独創教育論』『「十年先を読む」発想法』(西澤潤一著)、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』上・下巻『スプートニクの恋人』『ねじまき鳥クロニクル』第1・2・3部(村上春樹著)、『脳のなかの幽霊』(Ⅴ.S.ラマチャンドラン著)、『白痴』『堕落論』(坂口安吾著)、『古代への情熱』(ハインリヒ・シュリーマン著/村田数之亮訳)、『勝負』(升田幸三著)、『おはん・風の音』(宇野千代著)、『八十日間世界一周』(ジュールヴェルヌ著/田辺貞之助訳)、『孔子』(井上靖著)、『モォツァルト・無常という事』(小林秀雄著)、『夜間飛行』(サン・テグジュペリ著/堀口大学訳)、『タテ社会の人間関係』(中根千枝著)、『海が聞こえる』Ⅰ・Ⅱ巻(氷室冴子著)、『日本人とユダヤ人』(イザヤ・ベンダサン著)、『砂の女』『壁』『箱男』『密会』(安部公房著)、『坂の上の雲』全8巻(司馬遼太郎著)、『大地の子』全4巻(山崎豊子著)、『仮面の告白』『金閣寺』(三島由紀夫著)、などです。

 これだけ挙げても、まだ挙げたりないのですが、ひとつの目安として挙げてみました。もちろん、千冊もの本が全て頭の中に入ったということではありません。袖を擦る程度の表面的な読書もあれば、自分の心深くまで入り込むような読書もありました。1日平均して2~3冊は読むようにしました。初めは調子に乗って日に10~15冊も読んだこともあります。けれど、あまり冊数を増やしても、半分以上の内容がどうでもよくなっていることに気付きました。それからというもの、日に10冊以上も読むようなことはあまりしなくなりました。1日に大体2~3冊というペース、どうやらこれがぼくにとっての目安のようでした。

 人によって多読の目安は違います。速読スクールによって、読める本の数は格段に上がると思います。しかし、読める数と多読の目安は違います。多読するためには、自分の目安を見極めることが大切です。

2)価値観を広げる多読

 多読をすると色々な人の考え方に触れることになります。ぼくは人によって価値観が本当に多様だと気付き、驚きました。シャワーを浴びるようにいろいろな価値観に触れていくことで、自分の頭の中が広がっていくことを感じました。

 本の中には、速読するのが易しい本と難しい本があります。上に挙げた著作の中では『青春の門』(五木寛之著)は速読しやすい本に分類され、『モォツァルト・無常という事』(小林秀雄著)は速読しにくい本に分類されると思います。初めはどの本に対しても、同じ速度で読み進めていこうとしました。しばらくして、失敗に気付きました。本は自分の頭の中だけに納まるのではなく、作者の価値観が入り込んでくるからです。一般に、読者と作者の文化水準の差が大きい本は速読しにくいようです。もちろん、五木寛之さんは大作家ですから、どんな人が読んでも、引き込まれるように書いているのでしょうし、小林秀雄さんは偉大な評論家ですから、一定の深さを持った思索が必要で、誰が読んでも面白いというわけにはいかないのでしょう。

 そうしたことを見極めるためにも、自分の頭の中の価値観を広げていくことが必要です。『作者はこういう風な価値観に立って話を進めているが、前に読んだ本の中にはまた違う価値観があった。また、ぼく個人としてはその2つの価値観の中間辺りかなぁ』といった読み方です。そうすると、作者の立場がより鮮明になり、速読しやすくなります。

<読書スピードについて>

 速読なのだから速ければ速いほどいいだろうと思うかもしれません。確かに、初めはそういった意識で臨んだほうがいいようです。それまで本はゆっくりと読むものという固定観念が刷り込まれています。クリエイト速読スクールでは自分に上限を定めないで、常に限界以上の読書スピードで読んでいくような訓練をするといいと思います。また、そのための場所として速読スクールがあるといえます。

 この1年間でぼくの読書スピードは1分間に1200文字から2万文字まで上がってきました。この数字を1ページ650字の250頁の新書で換算すると6~10分で1冊読めることになります。だからといって、普段からこの速度で読んでいるわけではありません。1分間に2万文字という記録はそれほど当てになるものではありません。

 正確に理解できているかどうかの基準を試験の問題文に置くと、初めの3倍ぐらいで読めれば十分だと思います。ただし、自分の限界が3倍であって、3倍の速度で読むのと、自分の限界が初めの十数倍まで上がっていて、3倍で読むのではずいぶんと違うと思います。試験というミスの許されない状況では、限界の3倍では通用しません。余裕を持った3倍である必要があります。試験は運が左右するとはよく聞きますが、そうした運に振り回される部分を削っていくこと大切です。速読でスピードを追求していくと、時間に対して厳しくなります。厳しい時間感覚を持って、はじめて余裕も生まれてくるものだと思います。

<最後に>

 初めに書きました通り、ただ受験に合格するためにという理由だけで、クリエイト速読スクールに通ったのではありません。速読というものがよく分かっていない状態で、大学に合格するという一大事を速読に全部背負わせるのはあまりにもリスクが大きすぎます。ぼくは、予備校に通い、自宅でそれなりの勉強をしました。その勉強が、速読スクールに通っていたから集中してできたということだけです。速読スクールに通い続けるだけで受験に合格するなどということは絶対にありえません。その点を理解してさえおけば、速読は受験の枠をこえて幅広く活用できる技術になると思います。

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速読と文演Aクラスについて --- 京都大学大学院(哲学専修) ---

中村 はぎ乃 

1 速読への関心

 速読に対する関心は、思い出すと中学生の頃にまで遡る。家の近所にできた新しい書店の、豊富な品揃えに圧倒されたのがきっかけだ。あれも読みたい、これも読みたい、でも一度に全部は読めない。読書量は多い方だったと思うが、読みたい本の量と実際に読める本の量との差が埋まらないことに焦れていた。ならば、自分の読書能力を高めればよいのだと考えるに至り、どこで知ったのかは覚えていないが、「速読」というものに関心を持ち始めた。

 実はクリエイトにたどり着くまでに、私は何度か速読訓練を経験している。中学の時分に通信教育を、予備校生の時分には某速読教室を。私の期待が大きすぎたせいか、それとも根性が足りなかったせいか、どちらも長続きせず、後悔ばかりが残ったが速読への興味は尽きなかった。

 苦い挫折の連続によって、膨張を続ける速読への「憧れ」と、速読とは何ぞやという速読への根本的な「疑問」。この二つにケリをつけるべく、その後も書店に行くたびにその類の本をよく読んでいた。だが、満足のいく本に出会えなかった。大抵の速読教室は、速読に関する本を出版している。しかし、どれも非常に読みづらい文章とわかりづらい説明に終始している。「本が速く読めても、これでは……」魅力も説得力も決定的に欠けていた。結局、オカルトじみたものに憧れているだけなのかな。速読の本を漁る途中で、ふと我に返って苦笑することもしばしばあった。

2 クリエイトへの興味

 クリエイトで速読訓練を受けるに至った大きな理由の一つは、『知的速読の技術 BTRメソッドへの招待』(日本能率協会マネジメントセンター)という本の存在だ。一読後、速読の本では初めて腑に落ちるという感覚を味わった。
 これには高飛車な科学的説明もなければ、鼻白むような驚異的数字も出てこない。Basic Training for Readers methodという方法名からもわかる通り、徹頭徹尾、「読書する人のため」に書かれた本だ。この意味で、この本は読書に関するエッセイとも、上質な文章読本とも読める。そして「基礎的訓練」を行う意義を丁寧に噛み砕いて叙述している箇所は、読者に速読訓練の必要性を感じさせると同時に、端的ではあるが鋭い教育論になっている。
 さらに、この本は「手垢で真っ黒に」するくらい使い込めと読者にしっかりと語りかけている。この温かな、しかし厳しい語り口調に、クリエイトの本旨が凝縮されている気がした。ボールは投げられた、今度は私がそのボールを打つ番だ。こうして私は受講を決めたのだった。

3 「理解していないのでは?」という不安

 私が速読訓練のみならず文章演習講座(以下、文演)の受講も決めた理由は、数年来続いているおかしな不安感を克服するためである。卒論を書いている頃から、「確かに本を多く読んでいるけれど、本当は何も理解していないのではないか」という不安につきまとわれていた。大学院に進むとそれが一層顕著になり、思考も読書スピードも極端に落ち、目の前の書物に集中できなくなった。前髪が額に触れるのに過敏になったり、一句一句ごとに「今、私はこの言葉を本当に理解できているか」と、まるで習い始めたばかりの語学勉強のように、いちいち確認しないと気がすまなくなったりしていた。
 当然、何を読んでも内容がまるで理解できない。書くこともしかりで、毎日のように駄文を書き散らしてはいたが、インクの染みとなった言葉と脳内の言葉とが一致しないというもどかしさに悩んでいた。まじめに書こうともがくほど、書くことがこわくなる。句読点を打つ位置が気になると、そればかり気になってしまって、2、3行書いただけで疲れてしまう。それでも書き続けていていたが、気持ちの悪さはなおらなかった。

4 客観的指標を求めて

 クリエイトの速読訓練とは、端的にいえば、読めたという実感を大事にしてゆく、主観性・主体性重視の訓練である。おかげで私は、訓練を通じて読書のリズムと意欲を取り戻し、ついでに不安を取り除く技術もつかみ、読書に集中できるようになっていた。当初の目的を十分達成していたかに思えた。しかし今度は、正しく読むための具体的・客観的指標の必要性を強く感じていた。

 読むことに正しさがあるのか、あったとしても必要なのか、疑問に思う人もいるかもしれない。確かに、それは個人的な営みであり楽しみだ。何をどう読もうが、それは各個人の自由であり、極論すれば誤読する「自由」が読み手にはある。
 けれども、作家や思想家の文章は表現・文体・内容のすべてにおいて、多分に毒を含んでいる。読み手はその毒に少なからず影響を受ける。影響を受けることは読書の大きなたのしみの一つであり醍醐味ともいえるが、それが過ぎると批判的に読むことができなくなり、危険だ。また、読書は孤独な楽しみであるがゆえに、ややもすると独りよがりに過ぎた理解、偏った理解をしてしまうことがある。ちょっと気に入らない表現や言葉を見つけただけで、作品そのものを全否定するに至ってしまう。趣味としての読書なら、それでも構わないかもしれない。しかし、習慣化された読書の「癖」は、仕事や学業ばかりか思考方法全般に影を落とす。

 実際、私はこれまで勝手気ままに作家や思想家の書物を読んできたが、かえってかなりの悪癖を背負い込んでいた。自覚があるだけましなのかもしれないが、自分ではどうすることもできず、結果、理解していないという不安に陥ってしまった。私は、不安を根元から断ち切りたかった。そのためには、信頼のおける第三者の読解技術を知るのが妥当だと考えた。自分の理解がどれほどのものか、どこがおかしいのかを知りたい。こう考えた私は、受講を決意した。松田さんとは速読レッスンではほとんど話す機会はなかったが、『知的速読の技術』を読んだ限り、この人なら大丈夫という妙な信頼感があり、楽しみでもあった。

5 中身で勝負したければ……

 初回。松田さんから文章の基本的事項のレクチャーを受ける。まじめに聞いてはいたが、要は高校の教科書の巻末付録にでも載っていそうな話であり、特筆することではない。ところが、文演の面白いところは、叩き台となる教材が、過去の受講生の作品であるところだ。初歩的ミスを連発する作品群に、受講生はワイワイ言いながら指摘を始める。一通り指摘し終えたところで、松田さんの解説が加わり、さらに推敲されてゆく。
 するとどうだろう、正直言って目も当てられないほどの悪文だった文章が、凡ミスを直しただけで、格段に「読める」代物になっているではないか。文章の外見を直すだけで読みやすくなるというのを目の当たりにして、私は驚いた。「中身で勝負したければ外見はシンプルに」という松田さんの助言に、ただ深くうなづくばかりだった。

6 漠然とした靄の中から言葉を取り出すために

 回が進むにつれて、徐々に教材も複雑になっていった。ここでいう複雑とは、一読すると「どこか変だ」という歯がゆさと、「どう指摘すればいいのかわからない」というもどかしさだ。この「歯がゆさ」と「もどかしさ」は、自分が書き物をしたためる場合のそれと、どこか似ている。
 他人の文章を読んで欠点を指摘するのと自分の頭の中の思いを言葉にするのとでは次元が異なる問題かもしれないが、「漠然とした靄の中から適当な言葉を取り出す」という意味で、両者の行為は似ている。要は、読み手であれ書き手であれ、他人に対する、あるいは自分自身に対する理解が試されるわけである。換言すれば、理解するとは、適切な言葉で指摘したり表現したりすることに他ならない。文演Aクラスが「書く」のではなく「読む」作業に終始するのは、おそらくこの「理解」に重点を置いているからだと思う。

 ここで理解を助けるための「道具」が出番となる。それは、初回の頃に松田さんが解説してくれた文章の「型」や、速読レッスンで鍛えた「ロジカルテスト」、「イメージ読み」、「イメージ記憶」、「倍速読書」など、全てクリエイトで獲得した道具である。受講生はその「アイテム」を使って知恵を絞り、松田さんが最後に種明かしするまで、思い思いに発言する。「理解が試されているようで怖い」と思っていたのは最初だけで、私は大いに楽しんだ。中学生から社会人まで、年齢も職業も異なる他の受講生の指摘や解釈を聞くのは新鮮で楽しく、また、松田さんの解説によって自分の理解が矯正されてゆくのは、肩こりや腰痛を治してもらう感覚に似ていて、気持ちがよかった。温厚そうな外見とは裏腹に、松田さんはありとあらゆる作品をばっさり斬ってゆく。容赦のない辛口な批評は、一見出来のよい作品や特に問題のなさそうな作品にも及ぶ。それを聞く前と後では、作品に対する理解がまるで違ってくるのだ。

7 隠された意図

 徐々に文演の雰囲気に慣れてくると、松田さんや他の受講生と自分との解釈の合致点ではなく、相違点に注目するようになっていった。なぜ違ったのか、どこまでが「解釈」として許容できるのか、それとも「誤読」か。文演では受講生同士が思い思いに意見を出し合うけれど、決してぶつけ合うわけではない。毎回、松田さんによってバラバラな意見がうまく収束に向かうという感じである。
 そこにはもちろん、松田さんの隠された意図がある。毎度検討する作品は、一見すると任意に束ねられた作品群だ。しかし、その束ね方にはある意図が隠されていた。私は何とかしてこの意図を見抜けないものかと頭を捻っていたが、勘は外れてばかりだった。それでも、楽しい経験である。ややもすると印象批判に陥りがちな自分の批評を、書き手を伸ばすための批評にするためにも、この大きな謎解きへの挑戦は有益であった。

8 速読訓練の文演への効果

 私ははじめこそ家で予習(のようなもの)を行っていたが、途中から行きしなのバスや電車の中、喫茶店で行うようにした。まず、全体をさっと一読して、誤字・脱字やおかしな表現・不明瞭な箇所をチェックする。内容をわしづかみした後で詳細に検討に入るわけだが、ここでも速読が活躍していた……。

 実は、終盤のある回で、速読を全くせずに、段落ごとに細かく考えながら読み進めた時が一度あった。自分では詳しく予習したつもりでいたが、出来は散々。松田さんの意図を大きく外した。穴があったら入りたい気持ちになった。
 しかし、これはいい経験になった。全体を把握しないまま、尺取虫のようにくそまじめに読み進めても、正しい読解になるとは限らない、ということの好例であったからだ。少なくとも私の場合、短時間で速読してから講義に臨んだときの方が、筋がよかった気がする。

9 要約の効果

 過去の受講生が書いた作品は、フリースタイルだけではない。中高生から社会人まで挑戦した新聞の社説や署名記事の「要約」も多く含まれている。文演Aクラス全10回の後半は、この要約と原文を照らし合わせる作業にもある程度の時間を費やす。最初は他人の「要約」を見て何がわかるのだと高を括っていたが、どうしてどうして、奥が深い。

 実際に試してみることで、要約をすることも、他人の要約にケチをつけることも、原文に対する自分の理解がどれほどのものかを示す行為だということがわかった。それまでの講義内容に比べて、要約の検討という作業は、正直言って、楽しさよりもしんどさが勝っていた。なぜなら、要約という作業自体が、読み手の高度な理解と表現能力を要求するからだ。要約の授業は文章修業にとって大変有益なものと納得せざるを得なかった。

 文演の最初で最後の宿題は、当然のことながら「要約」だった。
 私は、要約問題として指定されたテキストを理解すると同時に、なんとか松田さんの意図を見抜いてやりたいと考えていた。あれこれ知恵を絞って要約をしたが、出来はそれほどよくはなかった。たかが要約、されど要約、である。
 要約とは、いわば他人のふんどしで相撲をとるようなものかもしれない。しかしそうであっても、相撲のルールや所作を熟知していなければ、土俵にのぼることすらできないのである。私が文演で学んだことは、まずは「土俵にのぼる」ための技術の習得だったように思われる。

10 最後に

 最後に、希望が持てる話をひとつ。文演では過去の様々な受講生の作品を叩き台とするのは先に述べた通りだが、同一の作者の複数の作品を見る機会もあった。私が素直に感動したのは、その人たちの成長ぶりである。当初は文章のイロハもわかってない文章を書いていた人が、書き直しをしたり、新たに作品を書くことによって、ぐんぐん進歩を遂げていた。これを目の当たりにしただけでも、文演を受講してよかったと思う。誰でもいくらでも伸びるのだ。
 ただし、各人の努力が要るのは言うまでもないことだ。文演では、テキストとなる作品とは別に、たくさんの資料が毎回配布される。そのどれもが、およそ文章を読み・書く上で有益なものであり、今後の言語生活においてヒントとなるものである。また、文演で培われた読解の技術は、これから使えば使うほど冴えるものだと私は確信している。わずか10回の講座ではあるが、その効果を倍にするのも無にするのも各人次第といえる。私の文章修業は、これからである。

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速読を短答試験に役立てる --- 平成16年度司法試験最終合格 ---

阿部 貴之

1、クリエイトの長所と短所
(1)安さ爆発!

 クリエイト速読スクールの受講料は安い。本当に安いと思う。何かウラがあるのではないかと疑うほど安い。いきなりこんな出だしから始まっても何を言ってるんだ、と非難されそうだがこれは重要だ。司法試験受験生といえば大抵の人が金銭的に余裕がないはずだからだ。私の受講のきっかけもこれが大きな割合を占めた。私の実感としては相場の半額、高いところと比較すると四分の一程度だと思う。自分には向かない、損をした、と思ってもダメージは少なくて済む。

 ただ、そこだけ強調しても今ひとつのはず。もっと試験に役立つ所をアピールしてよ、という声も聞こえてきそうだ。安い・リーズナブルという長所は十分魅力的だが、中身が充実しているからこその安さ爆発! をアピールせねばなるまい。これを満たしてはじめて安い! と言えるからだ。

(2)司法試験、法科大学院入試にとってクリエイトは……

 端的に私の実感を述べれば、速読は短答(択一)試験に、文章演習講座(文演)は法科大学院入試に役立つ。

 まず短答試験では、法的知識もさることながら論理力と高度な事務処理能力が重要な要素として要求される。これらを鍛える訓練メニューが講師と相談することで組むことが出来る。体験レッスンを受講してみると分かるが、特にロジカルテストは論理力、事務処理能力の向上に適している。適性試験対策の一環としても役立つはずだ。

 次に、法科大学院試験の一科目である小論文試験であるが、これは論理力などよりも純粋に文章読解力と文章作成能力が試されているので、文演での講義が役立つ。文演では文章をただ読むのではなく、書き手に伝わり易い文章をいかに作成するかを考えながら読むという形式をとる点で非常に実践的であるといえる。自己評価書の作成にも効果を発揮するはずだ。

(3)短所が無い学習方法なんて無い

 もちろん短所はある。それは通っている期間中自分の能力が上がっているのかどうかよく実感できないことだ。速読コースでは毎回自分が何をどれくらい出来たかを数字で記録するので、その数字が徐々に上がってきていることは確認できる。だが、肝心の試験勉強対策としてどの程度の成果が上がっているのか、これが把握しづらい。もちろん、能力の底上げになっていると割と早いうちに実感できる人もいる。この短所は相当に個人差があるようだが、その辺りの不安解消に役立ったのが、過去の合格体験記群であった。

2 自分の経験と照らし合わせて
(1)出会いのきっかけ

 私は平成12年4月(当時大学2年)から司法試験の勉強を始めた。「司法試験の天王山は論文試験にあり」という業界通説に従って論文対策に重点を置いて学習して行ったのだが平成13,14年と連続して短答試験で失敗した私は道を見失いかけていた。

 敗因は、時間不足であり事務処理能力の不足である。分かっていても対策方法が思いつかない。そんな時、母が書店で見かけたクリエイトのパンフレットを片手に受講を強く勧めてきた。これがクリエイトとの出会いだった。

(2)平成15年短答試験まで

 受講を始めたがなかなか記録カードの数字が大きく伸びていかない。試験にどう役立つかも見えてこない。途中からは開き直って遊びに行くつもりで受講していた。今思えばこの期間での訓練が能力の底上げになっていたと思う。何だ、若干しか伸びないのかと思う人もいるだろうが短答試験での若干の大切さが分かる人にはこのことは重要である。例えば、1問に付き10秒短縮できれば全体で10分の短縮につながり、更に2~3問解くことができる。この2~3問が合否の分かれ目なのだ。また、この期間を通じて開き直るということを覚えられた点も役立った。

 司法試験の勉強と離れて、頭の回転の速さを上げてみようという行動は時間が足りない受験生にとっては何より苦痛(今振り返れば、この苦痛感覚が訓練成績アップの妨げになっていたと理解はできる)だ。

 しかし、これくらい気持ちに余裕を持たせられなければ常人の精神力では本試験を乗り切ることは出来ない。最後には開き直らなければ本番ではプレッシャーに押しつぶされて終わりである。この期間に開き直ることを体で覚えられたことは何より重要だったと感じる。

(3)開き直りすぎても良くない

 しかし、平成15年も短答試験でこけてしまった。開き直れたのは良かったが、逆に開き直りすぎてしまい、民法で時間をかけても答えが出ないタイプの知識論理融合型問題をじっくり迷ってしまったのだ。終了時間が迫ってきてもあせらないのは良かったが、やりすぎは禁物である。

(4)法科大学院に逃げるも失敗。しかし、逆転。

 3年連続で門前払いにあった私はしばらく行動不能でほとんど勉強に身が入らず、気がつけば9月であった。速読も4月の短答直前以降通っていない。この頃、適性試験の追試があるということを聞いた私は、法科大学院入学に方向転換しようと考えた。1カ月程の期間、現行の勉強は一切捨てて準備した。しかし結果は63点。速読にも通っておけば良かったと思う反面、短答が苦手な人間にはいくら努力しても点数が伸びない形式の試験だとも感じた。適性が悪い分小論文等で稼がねば、と考えた私は文演を受講し法科大学院入試に備えた。受験は、お目こぼしを期待して母校である立教のみにしぼったものの書類選考すら合格させてもらえず、文演での成果を試す機会は与えられなかった。

 追い詰められた私が死に物狂いで寝る間も惜しんで勉強したか、というとそういう訳でもなかった。ただ、一日一日の勉強の質は向上した。それだけ必死になれたということだ。努力のかいあってか、運も手伝ってか、ギリギリではあったものの平成16年の短答試験を突破し、そして最終合格をも果たすことができた。

(5)あれ? 論文は?

 最後に論文試験についても触れておこう。論文は純粋に論理力が試されており、文章が論理的に読み易ければそれで良い試験である。したがって文演でやるような立派な日本語の文章を書くことまでは要求されていない。また文章も短いので速読する必要もない。では、クリエイトでの学習が論文試験には役立たないのか。確かに、私は論文作成が比較的得意だったので論文対策としてクリエイトを利用する意識は無かった。

 しかし、文演で、文章眼の鋭い松田さんに講義で使用した教材の要約を見てもらう機会があり、自分の要約した文章が論理的であるかをチェックしてもらうことができ、これが大いに役立った。また、開き直れないと失敗する試験であることは短答と同様なのでこの点は速読での経験が役立った。

 たまたま母が書店で手にしたクリエイトのパンフレット。袋小路に迷い込んでいた当時の私が、素直に親の言うことを聞いたあたりからツキもめぐってきたのかもしれない。