京都大学院生がおすすめする速読教室。尽きなかった速読への興味 | 速読ナビ

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京都大学院生がおすすめする速読教室。尽きなかった速読への興味

更新日:2024年4月20日 公開日:2023年7月11日

 この記事は、京都大学大学院生(哲学専修)の中村さんによる、速読体験記です。

中村 はぎ乃

速読はうさんくさく、オカルトじみたもの。

 速読に対する関心は、思い出すと中学生の頃にまで遡る。家の近所にできた新しい書店の、豊富な品揃えに圧倒されたのがきっかけだ。あれも読みたい、これも読みたい、でも一度に全部は読めない。読書量は多い方だったと思うが、読みたい本の量と実際に読める本の量との差が埋まらないことに焦れていた。ならば、自分の読書能力を高めればよいのだと考えるに至り、どこで知ったのかは覚えていないが、「速読」というものに関心を持ち始めた。

 実はクリエイトにたどり着くまでに、私は何度か速読訓練を経験している。中学の時分に通信教育を、予備校生の時分には某速読教室を。私の期待が大きすぎたせいか、それとも根性が足りなかったせいか、どちらも長続きせず、後悔ばかりが残ったが速読への興味は尽きなかった。

 苦い挫折の連続によって、膨張を続ける速読への「憧れ」と、速読とは何ぞやという速読への根本的な「疑問」。この二つにケリをつけるべく、その後も書店に行くたびにその類の本をよく読んでいた。だが、満足のいく本に出会えなかった。大抵の速読教室は、速読に関する本を出版している。しかし、どれも非常に読みづらい文章とわかりづらい説明に終始している。「本が速く読めても、これでは……」魅力も説得力も決定的に欠けていた。結局、オカルトじみたものに憧れているだけなのかな。速読の本を漁る途中で、ふと我に返って苦笑することもしばしばあった。

BTRメソッドとの出会い

 クリエイトで速読訓練を受けるに至った大きな理由の一つは、『知的速読の技術 BTRメソッドへの招待』(日本能率協会マネジメントセンター)という本の存在だ。一読後、速読の本では初めて腑に落ちるという感覚を味わった。

 これには高飛車な科学的説明もなければ、鼻白むような驚異的数字も出てこない。Basic Training for Readers methodという方法名からもわかる通り、徹頭徹尾、「読書する人のため」に書かれた本だ。この意味で、この本は読書に関するエッセイとも、上質な文章読本とも読める。そして「基礎的訓練」を行う意義を丁寧に噛み砕いて叙述している箇所は、読者に速読訓練の必要性を感じさせると同時に、端的ではあるが鋭い教育論になっている。

 さらに、この本は「手垢で真っ黒に」するくらい使い込めと読者にしっかりと語りかけている。この温かな、しかし厳しい語り口調に、クリエイトの本旨が凝縮されている気がした。ボールは投げられた、今度は私がそのボールを打つ番だ。こうして私は受講を決めたのだった。

書物に集中できない・書くことができない

 私が速読訓練のみならず文章演習講座(以下、文演)の受講も決めた理由は、数年来続いているおかしな不安感を克服するためである。卒論を書いている頃から、「確かに本を多く読んでいるけれど、本当は何も理解していないのではないか」という不安につきまとわれていた。大学院に進むとそれが一層顕著になり、思考も読書スピードも極端に落ち、目の前の書物に集中できなくなった。前髪が額に触れるのに過敏になったり、一句一句ごとに「今、私はこの言葉を本当に理解できているか」と、まるで習い始めたばかりの語学勉強のように、いちいち確認しないと気がすまなくなったりしていた。

 当然、何を読んでも内容がまるで理解できない。書くこともしかりで、毎日のように駄文を書き散らしてはいたが、インクの染みとなった言葉と脳内の言葉とが一致しないというもどかしさに悩んでいた。まじめに書こうともがくほど、書くことがこわくなる。句読点を打つ位置が気になると、そればかり気になってしまって、2、3行書いただけで疲れてしまう。それでも書き続けていていたが、気持ちの悪さはなおらなかった。

読むという行為の客観的指標を求めて

 クリエイトの速読訓練とは、端的にいえば、読めたという実感を大事にしてゆく、主観性・主体性重視の訓練である。おかげで私は、訓練を通じて読書のリズムと意欲を取り戻し、ついでに不安を取り除く技術もつかみ、読書に集中できるようになっていた。当初の目的を十分達成していたかに思えた。しかし今度は、正しく読むための具体的・客観的指標の必要性を強く感じていた。

 読むことに正しさがあるのか、あったとしても必要なのか、疑問に思う人もいるかもしれない。確かに、それは個人的な営みであり楽しみだ。何をどう読もうが、それは各個人の自由であり、極論すれば誤読する「自由」が読み手にはある。

 けれども、作家や思想家の文章は表現・文体・内容のすべてにおいて、多分に毒を含んでいる。読み手はその毒に少なからず影響を受ける。影響を受けることは読書の大きなたのしみの一つであり醍醐味ともいえるが、それが過ぎると批判的に読むことができなくなり、危険だ。また、読書は孤独な楽しみであるがゆえに、ややもすると独りよがりに過ぎた理解、偏った理解をしてしまうことがある。ちょっと気に入らない表現や言葉を見つけただけで、作品そのものを全否定するに至ってしまう。趣味としての読書なら、それでも構わないかもしれない。しかし、習慣化された読書の「癖」は、仕事や学業ばかりか思考方法全般に影を落とす。

 実際、私はこれまで勝手気ままに作家や思想家の書物を読んできたが、かえってかなりの悪癖を背負い込んでいた。自覚があるだけましなのかもしれないが、自分ではどうすることもできず、結果、理解していないという不安に陥ってしまった。私は、不安を根元から断ち切りたかった。そのためには、信頼のおける第三者の読解技術を知るのが妥当だと考えた。自分の理解がどれほどのものか、どこがおかしいのかを知りたい。こう考えた私は、受講を決意した。松田さんとは速読レッスンではほとんど話す機会はなかったが、『知的速読の技術』を読んだ限り、この人なら大丈夫という妙な信頼感があり、楽しみでもあった。

読みやすい文章について学ぶ

 初回。松田さんから文章の基本的事項のレクチャーを受ける。まじめに聞いてはいたが、要は高校の教科書の巻末付録にでも載っていそうな話であり、特筆することではない。ところが、文演の面白いところは、叩き台となる教材が、過去の受講生の作品であるところだ。初歩的ミスを連発する作品群に、受講生はワイワイ言いながら指摘を始める。一通り指摘し終えたところで、松田さんの解説が加わり、さらに推敲されてゆく。

 するとどうだろう、正直言って目も当てられないほどの悪文だった文章が、凡ミスを直しただけで、格段に「読める」代物になっているではないか。文章の外見を直すだけで読みやすくなるというのを目の当たりにして、私は驚いた。「中身で勝負したければ外見はシンプルに」という松田さんの助言に、ただ深くうなづくばかりだった。

漠然とした靄の中から言葉を取り出すために

 回が進むにつれて、徐々に教材も複雑になっていった。ここでいう複雑とは、一読すると「どこか変だ」という歯がゆさと、「どう指摘すればいいのかわからない」というもどかしさだ。この「歯がゆさ」と「もどかしさ」は、自分が書き物をしたためる場合のそれと、どこか似ている。

 他人の文章を読んで欠点を指摘するのと自分の頭の中の思いを言葉にするのとでは次元が異なる問題かもしれないが、「漠然とした靄の中から適当な言葉を取り出す」という意味で、両者の行為は似ている。要は、読み手であれ書き手であれ、他人に対する、あるいは自分自身に対する理解が試されるわけである。換言すれば、理解するとは、適切な言葉で指摘したり表現したりすることに他ならない。文演Aクラスが「書く」のではなく「読む」作業に終始するのは、おそらくこの「理解」に重点を置いているからだと思う。

 ここで理解を助けるための「道具」が出番となる。それは、初回の頃に松田さんが解説してくれた文章の「型」や、速読レッスンで鍛えた「ロジカルテスト」、「イメージ読み」、「イメージ記憶」、「倍速読書」など、全てクリエイトで獲得した道具である。受講生はその「アイテム」を使って知恵を絞り、松田さんが最後に種明かしするまで、思い思いに発言する。「理解が試されているようで怖い」と思っていたのは最初だけで、私は大いに楽しんだ。中学生から社会人まで、年齢も職業も異なる他の受講生の指摘や解釈を聞くのは新鮮で楽しく、また、松田さんの解説によって自分の理解が矯正されてゆくのは、肩こりや腰痛を治してもらう感覚に似ていて、気持ちがよかった。温厚そうな外見とは裏腹に、松田さんはありとあらゆる作品をばっさり斬ってゆく。容赦のない辛口な批評は、一見出来のよい作品や特に問題のなさそうな作品にも及ぶ。それを聞く前と後では、作品に対する理解がまるで違ってくるのだ。

隠された意図

 徐々に文演の雰囲気に慣れてくると、松田さんや他の受講生と自分との解釈の合致点ではなく、相違点に注目するようになっていった。なぜ違ったのか、どこまでが「解釈」として許容できるのか、それとも「誤読」か。文演では受講生同士が思い思いに意見を出し合うけれど、決してぶつけ合うわけではない。毎回、松田さんによってバラバラな意見がうまく収束に向かうという感じである。

 そこにはもちろん、松田さんの隠された意図がある。毎度検討する作品は、一見すると任意に束ねられた作品群だ。しかし、その束ね方にはある意図が隠されていた。私は何とかしてこの意図を見抜けないものかと頭を捻っていたが、勘は外れてばかりだった。それでも、楽しい経験である。ややもすると印象批判に陥りがちな自分の批評を、書き手を伸ばすための批評にするためにも、この大きな謎解きへの挑戦は有益であった。

速読訓練の文演への効果

 私ははじめこそ家で予習(のようなもの)を行っていたが、途中から行きしなのバスや電車の中、喫茶店で行うようにした。まず、全体をさっと一読して、誤字・脱字やおかしな表現・不明瞭な箇所をチェックする。内容をわしづかみした後で詳細に検討に入るわけだが、ここでも速読が活躍していた……。

 実は、終盤のある回で、速読を全くせずに、段落ごとに細かく考えながら読み進めた時が一度あった。自分では詳しく予習したつもりでいたが、出来は散々。松田さんの意図を大きく外した。穴があったら入りたい気持ちになった。

 しかし、これはいい経験になった。全体を把握しないまま、尺取虫のようにくそまじめに読み進めても、正しい読解になるとは限らない、ということの好例であったからだ。少なくとも私の場合、短時間で速読してから講義に臨んだときの方が、筋がよかった気がする。

要約の効果

 過去の受講生が書いた作品は、フリースタイルだけではない。中高生から社会人まで挑戦した新聞の社説や署名記事の「要約」も多く含まれている。文演Aクラス全10回の後半は、この要約と原文を照らし合わせる作業にもある程度の時間を費やす。最初は他人の「要約」を見て何がわかるのだと高を括っていたが、どうしてどうして、奥が深い。

 実際に試してみることで、要約をすることも、他人の要約にケチをつけることも、原文に対する自分の理解がどれほどのものかを示す行為だということがわかった。それまでの講義内容に比べて、要約の検討という作業は、正直言って、楽しさよりもしんどさが勝っていた。なぜなら、要約という作業自体が、読み手の高度な理解と表現能力を要求するからだ。要約の授業は文章修業にとって大変有益なものと納得せざるを得なかった。

 文演の最初で最後の宿題は、当然のことながら「要約」だった。

 私は、要約問題として指定されたテキストを理解すると同時に、なんとか松田さんの意図を見抜いてやりたいと考えていた。あれこれ知恵を絞って要約をしたが、出来はそれほどよくはなかった。たかが要約、されど要約、である。

 要約とは、いわば他人のふんどしで相撲をとるようなものかもしれない。しかしそうであっても、相撲のルールや所作を熟知していなければ、土俵にのぼることすらできないのである。私が文演で学んだことは、まずは「土俵にのぼる」ための技術の習得だったように思われる。

最後に

 最後に、希望が持てる話をひとつ。文演では過去の様々な受講生の作品を叩き台とするのは先に述べた通りだが、同一の作者の複数の作品を見る機会もあった。私が素直に感動したのは、その人たちの成長ぶりである。当初は文章のイロハもわかってない文章を書いていた人が、書き直しをしたり、新たに作品を書くことによって、ぐんぐん進歩を遂げていた。これを目の当たりにしただけでも、文演を受講してよかったと思う。誰でもいくらでも伸びるのだ。

 ただし、各人の努力が要るのは言うまでもないことだ。文演では、テキストとなる作品とは別に、たくさんの資料が毎回配布される。そのどれもが、およそ文章を読み・書く上で有益なものであり、今後の言語生活においてヒントとなるものである。また、文演で培われた読解の技術は、これから使えば使うほど冴えるものだと私は確信している。わずか10回の講座ではあるが、その効果を倍にするのも無にするのも各人次第といえる。私の文章修業は、これからである。

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