体験記

クリエイト速読スクール体験記 '03

押し寄せる資料の山、E-mailの洪水 ---ファンド・オブ・ザ・イヤー2002最優秀賞受賞!---

会社員  若松 真澄

受講の動機

 読むのはもともと速いほうだった。だが、それでは足りなかった。
 体験レッスン時のアンケートには「情報処理能力を高めたい」と書いた。毎日押しよせる大量の資料を読みこなす力が、もう少し欲しかったのだ。

 ファンドマネジャー、という職業をご存知だろうか。株式、債券、為替、最近は不動産まで売ったり買ったり、マーケットに張り付いてお金を動かす。見たこともない数千億円も仕事と割り切ればただの数字。億円単位の取引もキーボードをいくつか叩くと、それで完了だ。だが、何を買うか売るか、決断にいたるまでの分析は、勢い、膨れあがる。アタマをかかえ、首をひねりながら、毎日押し寄せてくる資料の山、E-mailの洪水と付き合うはめになる。
 受講回数が30回を越えた今、以前は机の脇に積みあがって時には雪崩を発生させていた資料も、積み上げるまでもなく目を通せるようになった。読めるようになると、書くことに興味が向いた。

 私の効率を上げ、思いがけない楽しみを与えてくれたクリエイト速読スクールの速読と文章演習のそれぞれについて述べてみよう。

速読訓練

 訓練の内容は多彩だ。その中で私にとって意義が大きかった訓練は以下の3つだ。

 まず「カウント呼吸」。毎回の訓練の最初に行う。要は数を数えながらの深呼吸だ。リラックスと集中の効果があり、その日の訓練に入っていけるよう気持ちを切り替えることができる。私は自宅で勉強するときや、職場でも集中力を要する場合にはカウント呼吸を取り入れている。カウント呼吸で集中状態に入れる、という確信があるからか、今ではカウントしなくても自分の呼吸に意識を向けるだけで集中力が高まるようになった。

 「ロジカルテスト」は、いくつかの条件から因果関係や論理構造をチェックしていくテストだ。時間内に何問解けるか計っていく。瞬時に論理構成を把握し判断を下していかねばならない。ある程度のスコアが出せるようになると、渡される問題の難易度が上がっていく。制限時間は3分。どっと吹き出る汗を感じながら解けかかった問題を少しでも先に進ませる、そんなギリギリの感覚を味わえる。

 「イメージ記憶訓練」は、<地蔵-飛行機><列車-あんまん>まるで関係のない2つの単語をペアで覚えていく。突拍子もない組み合わせ、抽象的でイメージの仕様がないと思わせるもの、時間は限られている。目は単語の上を流しながらイメージを生み出していく。クリエイトならではの頭の体操だ。
 こうした訓練は仕事とは関係なさそうで、ところが今ではオフィスで同じことをしている。文字や数字、図表を右から左に流すようにめくりながら、その資料が訴えているもの、何かを掴み取っていく。文字と数字の関係、数十ページの資料の骨格が自分の中で映像になって組み立てられていく。理解度が、格段に上がった。記憶の定着度合いの伸びはいうまでもない。

本当に速くなるの?

 訓練の内容を読んで、何でこれが速読なの? と思われるかもしれない。もっともだ。一見速く読むことに関係などなさそうだ。ところがこれらの訓練を続けることで、速読に必要な、目から入ってくる情報をすばやくさばく力や情報を関連付ける力がついてくるのだ。

 クリエイトでは訓練の進み具合は受講生別にファイルされ、その人に応じた指導が適宜入る。記録カードに訓練ごとのスコアやタイムを記録するのだが、自分の進歩が目に見える。時折、記録カードに書き込まれた講師の方のひとこと、スコアに添えられたアンダーライン1本が励みになる。
 教室に通うたびに前回よりも1回でも多く、1秒でも早くと挑戦することでスコアが伸びていく。できるようになったら少しだけ、負荷をかける。それも出来るようになる。次はさらにもう少しだけ。まるでアタマの筋力トレーニングだ。
 筋トレを面白がって通っているうちに、読むスピードが速くなっていった。体験レッスン時の2,400字/分から、30コマ目には10,000字/分を超えるところまできた。仕事で資料を読む時間は以前の1/3である。

 ところで私は速く読むことが出来るようになって、以前よりゆっくり読むことも増えてきた。ゆっくり一語一語をかみしめて読む楽しさもある。目を通すべきものはすばやく読み、楽しんで読む本は、時にはゆっくりと。読むことに対して余裕が出来たということだろうか。

文章演習講座

 速読訓練の目的が「速く読む力をつける」ことだとするなら、文章演習講座のそれは「書く力をつける、書くための前提として深く読む力をつける」というところか。
 文演Aクラスは、受講生が例文を読んで批評する形をとる。前の週に渡された文章を読んできて、「何が問題なのか、何が欠けているのか」を検討していく。ぼんやりと違和感のある文章でも、何がどのようにおかしいのか、指摘するのは難しい。文章を前に客観的に考えることになる。

 発言が義務付けられているわけではないが、私は毎回必ず一度は考えを口にすることにした。全10回のクラスでずいぶん的外れなことも言ったし、肝心のところが読めていない自分に気付かされ、自己嫌悪で肩を落としたこともあった。だが、ここは練習、稽古の場だ。安心して失敗できる。松田さんは受講生の意見を一切否定されず、皆の発言の後でご自分の見解を述べられる。だからこそか、より自分の問題点やクセが明らかになっていくのを感じた。

要約の面白さ

 文演Aクラスでは1度だけ自分の文章を書く機会がある。指定された数十ページを要約してくるのだ。要約は自分の文章とはいえない、と考える人もいるだろう。しかし受講生全員が同じ文章を読み、同じ量に要約してくるのに、それが一人ひとり、すべて違うのだ。おそらく自由に作文を書いてくるよりも、ずっとその人が表れる。読み取りの深さ、主題の把握、表現がそれぞれに異なるからだ。自分が書いたものを改めて読み、他の受講生が書いたものを読み、そして講評を聞く。自分の文章のどこが甘いのか、何が足りないのか、目からうろこがポロポロ落ちる。面白いだけではなく、怖いと感じることもあった。速読が筋トレなら、文演Aはゴルフやテニスのレッスンプロについてのフォームの矯正だ。少なくとも読み手に目を通してもらえるフォームを身につけることができる。

魔法でも超能力でもなく

 クリエイトの速読は魔法でも超能力でもない。技術だ。訓練で、それもまるでゲームのような訓練で身に着けることが可能な技術だ。慣れるとそれが技術であることさえ意識しなくなる。文演も同じだ。伝えるべきことを伝えるためには技術が必要だ。クリエイトはその技術を楽しく伝授してくれる。
 目的地に向かうのに、自転車もいいだろう。ジョギングも、時々立ち止まりながらの散歩も楽しい。だが時間が限られる中で、すばやくたどり着くために、多少障害物が転がっていても乗り越えていくために、パワーのあるオフロードバイクはいかがだろうか。何かを求めるあなたの役に立ってくれるかもしれない。クリエイトは想像以上に手ごたえのある教習所である。

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新米ライターの文演受講記

村上 のぶこ

1 職業:ライター

 わたしはテクニカルライターをしている。
 聞きなれない職業だが、具体的にはパソコンの使い方を解説する文章を書いている。
 すでに文章を書くことを仕事にしているわけだから、プロじゃないかと思われるかもしれないが、この仕事を本格的にはじめて約1年。わたしは、わたし自身の文章力のなさ、文章を書く上での決まりを知らないことに何度も情けない思いをしてきた。

 もともとパソコンのインストラクターをしていたことから、縁あってライターのお仕事をさせていただくことになったのは2年ほど前のことだ。ある会社のホームページで募集告知を読み、インターネットで応募したら受かったのだ。
 最初はサンプルデータを作ったり、簡単な解説を書いたり、文字数も文体もあまり制限されないなかで好き勝手にやらせてもらっていた。インストラクターの仕事でも、サブテキストとして資料を作ることはあったから苦にはならなかった。機会を与えられるまま仕事をこなしていくと、知識があって仕事が早いと評判になったらしい。本や雑誌に名前が出るのも、やってきた仕事が認められたことも、ただただうれしかった。

 しかし、やはりプロになるということはそんなに甘くはない。
 テーマやターゲット、ページ数などが決まった中で文章を書くというのはむずかしい。しかも媒体によって「好まれる文体」というものがある。職業である以上、それらすべてをクリアするのは当然のことだが、いっぺんにいくつもの仕事が重なると、なかなか頭を切り替えられなかった。書くべきことは決まっていて、書きたいことは頭の中にあるのに、決められた枠のなかできちんと構成を組み立てることができないのだ。情けない。
 とにかく締め切りに間に合わせることが一番重要だと考えていたから締め切り前に、無理やり型に押し込んだ原稿を仕上げる。表向きの体裁は整っていたとしても、ちっとも納得がいかないものだし、自信が持てなかった。
 アドバイスを求めたことも一度や二度ではない。だが良い点、悪い点を指摘してもらっても、頭に残らなかった。もっと根本的な、文章を書くための基礎知識がないことがわかっていたからだ。

2 書籍の執筆

 そうしているうちに書籍を執筆することになった。メインライターは2人。ボリュームがあり、スケジュールがタイトな場合、複数のライターで担当することは珍しくないことだ。その出版社で出している書籍は、だいたい150~250ページほど。1人で担当する場合、ライターは打ち合わせから最終的なチェックまでをだいたい2カ月ほどで仕上げる。わたしたちが担当することになったのは新しいシリーズで、最終的には700ページ強で出版されたが、当初800ページ前後で、という話だった。出版予定は4カ月後。原稿の最終チェックは3カ月後だ。5月の終わりに、「夏は終わったね」と笑いながら打ち合わせをはじめたことをおぼえている。

 最初は2人で書く予定だった。担当するページの原稿を書いてはメールでそれを送りあい、お互いにチェックして提出。ぎりぎりのスケジュールで、休む間もなく仕事をしていた。ところがそのぎりぎりのスケジュールが前倒しになってしまった。それはもう、頭の中が真っ白になるくらいびっくりした。
 どう考えても無理だ。新しい執筆スケジュールについて2人で話し合い、会社に連絡してスタッフを3人増員してもらった。3人も増えたのだ。これで負担は軽くなる、はずだった。

3 この文章はなぜ読みにくいのか?

 確かに山と積まれていた原稿を他の人に割り振ることはできた。2人とも、前よりはる.かに少ないページを執筆するだけでよくなったのだ。しかし、上がってくるすべての原稿に目を通さなければ、これを提出することはできない。複数のライターで執筆する場合、内容に誤りがないことの確認と文章の印象を統一するために、この「査読」という作業をしないわけにはいかない。
 それでも読むだけなら書くよりは早いはず。まだ高をくくっていた。ところが上がってきた原稿を読み始めると、これが予想以上に大変だった。文章がおかしいのだ。例えていうなら、真正面の壁に向かって投げたボールが思わぬ方向に跳ね返るような印象を受ける。強い違和感を覚えた。

 今になればわかるのだが、それは一文の中で複数のことについて書いていたり、主語、または述語がなかったり、読点の位置がおかしかったりと様々な問題があったからだった。しかし、その時のわたしには首をひねりながら内容が正しいかどうかを判断することしかできなかった。
 原稿を直してもらい、次から何に注意するのかを伝えなくてはいけないのに、そういったアドバイスをすることが出来ないのだ。本当に力がないことを痛感した。情けなかった。

4 クリエイトとの出会い

 クリエイトには速読を習うために6月頃から通い始めていた。もともと読書は好きだし、おそらく読むのも遅くはない。ただ、資料として味も素っ気もない本を読むのはつらかった。「これがちょっとでも速く読めれば」と思ったのが速読を習うことにしたきっかけだ。

 自宅で仕事をしているとはいえ、仕事が多くて外出もままならなかったので通いやすいこともポイントだ。インターネットで検索すると池袋には数件の速読スクールがあった。うちから通いやすいのは、実は別のスクールだった。カリキュラムも比較してみたが、よくわからない。実際にはじめてみないとどちらがいいのかは判断できなさそうだ。しかし、クリエイトのホームページで文演受講体験記やSEGの受講生アンケートを読んで、わたしにはこちらの方が必要なのではないだろうかと思い、クリエイトに通うことに決めた。

 速読は、「ちょっとでも速く読めれば」はすぐにクリアしたが、ひそかに期待していたほどには読字数はまだいっていない。ただびっくりするほど集中力が身につくのが面白かった。集中できないのに無理やりパソコンの前に座り、搾り出すように原稿を書くよりも、速読に行って仕事に戻る方が能率良く進められる。まして、わたしは家で仕事をするので、誘惑はそこここにある。15分ごとにメールチェックをし、お茶を入れ、飲み、猫と遊んでいた。別にたいした気分転換にもならないが、仕事に行き詰まると目に入るものに逃げてしまう。結果的に首を絞めることになるのだが。ところが、速読に通い始めてすぐに頭がスッキリしているのを感じた。2~3時間も集中して仕事を続けられるので、どんどん仕事が片付く。これは時間にも気持ちにも余裕ができるのでとてもうれしいことだった。

 肝心の文演Aクラスは、秋から次のクラスが開講するということだった。それではクラスが始まるときには、件の本はもう出版されている。だがそんなことは関係ない。今後仕事を続けていくなら、いま勉強をしなければだめだ、と思っていたから募集が始まってすぐに申し込み、開講を心待ちにしていた。

5 文演Aクラスは「読むクラス」?

 はじまってわかったことが1つある。Aクラスは「文章を読む」クラスだったのだ。
 これにはとまどった。わたしは一刻も早く文章を書くテクニックを身につけたいのに、読むところからはじめるなんて、いくらなんでも・・・・・・。しかし、ガイダンスを聞きながら「そういえば、読み方って知らないな」と考え直した。とにかくもうはじまったことだ。勉強をしよう。わかっていることを習うなら、それはそれで余裕を持てていいことだ。

 実際にはじまってみると、仕事柄、校正記号などは多少知っていたが、それ以外は知らないことばかりだった。
 Aクラスでは、主に「良くない文章」を読み、これをみんなで講評しあう。ぱっと見てすぐに、ここが良くないなとわかる文章もあれば、よく読んでも大して悪いところが見当たらない文章もあるし、音読してはじめて変だな、と思う文章もあった。他の受講生の意見は視点が違うので、いつも新鮮だった。段落の変え方について、時間の経過がわかりにくい、この部分が何を指しているのかわからない、など、わたしには思いもよらない意見がどんどん出てくる。同じ受講生の高校生からは、起承転結や文法がどうのこうのという話も出てくる。「そうか、なるほど」の連続だった。
 そういった文も、言葉の使い方や文章の区切り方、説明の不足を補い、逆に過剰なものをそぎ落とすだけで見違えるほど読みやすくなる。Aクラス唯一の課題である「要約」も、言うとやるとでは大違いで本当に勉強になった。「要約」とは、長文の中から筆者が伝えたいことを短くまとめた文章のことだが、受講者が同じ文章を決められた文字数に要約するのに、2つとして同じにはならない。わたしが切り捨てた部分が大切に書かれていたり、逆に固執した部分がばっさり切り捨てられていたりしているのだ。ひとりひとりの文章を読み評価を聞いて、人それぞれ考え方が違うことを実感した。これも、その文章を読み込んでいるからこそだろう。

 ほとんど毎回、松田さんに「村上さん、退屈してないですか?」と聞かれたが、とんでもない。いつも過去の失敗を思い返していた。わたしは文章を印象でしか見ていなかったことがよくわかった。そして"読み取れる分しか書けない"という松田さんの言葉も印象的だった。読むことは、実はこれほど大事なことだったのだ。

6 自分の意見を人に伝えるということ

 過去の受講体験記にもあった意見だが、なぜ学校ではこのようなことを教えないのだろう、と思う。知識を身につけることはもちろん重要だ。しかし、それを表現するための考え方や方法を知らなければその価値は半減する。実にもったいないことだ。教えられる人が少ないということもあるが、おそらくこういう基本的なことに対して問題意識が希薄なのではないだろうか。

 わたしはインストラクターの仕事をはじめるまで、人前で話すことができなかった。恥ずかしくてたまらなかったのだ。でもある日、そんなに恥ずかしがるのはただの自意識過剰だと気がついた。授業を理解してもらえるようにするのが仕事で、本当に恥ずかしいのはきちんと理解してもらえないことだ。それからは受講者が少ないとさみしいとさえ思うくらい平気になった。

 どんなに苦手だと思っていることでもトレーニングさえすればできるようになる。自分の考えを過不足なく、そして誤解されることなく伝えるためのトレーニングは、いつ受けても早すぎることはないし、もちろん遅すぎることもないだろう。とはいえ、Aクラス同期の高校生2人をこころからうらやましく思う。あの年齢できちんとした文章の読み方、書き方を知っていることは財産といっても言い過ぎではない。

 次はBクラスを受けて、実際に文章を書く勉強をする。それが終わる頃にはきっと、この文章も直したいところがたくさん見つかることだろう。

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読む力をつけるために

東京大学社会情報研究所 研究機関研究員  山本 拓司

 大学の研究職を希望している関係で、今の私にはたくさんの論文を読み、そしてたくさんの論文を書くことが要求されています。読み書きいずれに関しても力不足を感じていた私は、まず速く読むために速読コースを受講しました。新聞や雑誌などで平明な文章を読む時間を短縮できれば、その分の時間を学術書の読解に廻せるのではと考えたのです。なぜクリエイト速読スクールを選んだかといえば、ホームページをはじめ、送付資料に展開される体験記のどれもが、書き手の言葉でしっかりと具体的に綴られており、圧倒的な説得力で成果を語っていたからです。訓練を受けてしばらくしたある日、通勤電車で週刊誌をほぼ一冊読んで手持ち無沙汰になってしまったときに、速読の成果を強く実感することができました。

 次に書くための訓練を受けようと思いました。文章演習講座Aクラスです。受講前、速読の講師の方に、演習ではたくさん書くのですか、と尋ねたところ、いや、ほとんど書きませんとの答えが返ってきたのは少し意外でした。書くことなしに書く能力が上達するのだろうか。書かない文章講座とは、どのようなものなのだろうか。まったく想像がつきませんでした。

 クラスでは、受講者にサンプルの文章が手渡され、まず講師の松田さんが、その文章のどこが悪いかを受講者に尋ねます。人間とは勝手なもので、自分のことは棚に上げて、他人が書いた文章であればどこが悪いのか指摘できるのです。私も、自分なりにこうすればよくなるのではないか、という点をコメントしました。受講者によるコメントが終わると、松田さんがわれわれ受講者が気づけなかった点を述べます。

 どんな人でも、ある文章を読んでその文章が良いか悪いかについてはある程度判断できるものだと思います。しかし、明確にどこが悪いか指摘できない、ということがよくあります。その理由のひとつは、文章を書く際に気をつけるべきポイントを、明確に言語化して理解できていない点にあります。逆に、そのポイントのひとつひとつをきちんと理解できていれば、文章の欠点を簡単にピックアップして、短時間に磨き上げることが可能になります。

 講座では、配布された文章を素材に、人に的確に伝わる文章のポイントをたくさん学ぶことができました。そうしたポイントを知ることにより、初回からどんどん地平が開けていく感じがしました。講座も、3回目から4回目になった頃、あることに気づきました。それは自宅で新聞や学術、一般書などに目を通しているとき、その文章の筆者を、以前よりずっと身近に感じながら読んでいるのです。筆者はどのような知識をもった人で、何を伝えようと書いているのか。書かれていることはもちろん、書かれていないことからも、探ろうとしているのです。それまでは噛まずにただ胃袋へ流し込むように文章を読んでいたのが、まるで文章を味わって楽しんでいるかのようでした。さらに、しっかり味わって読んだ文章は、その内容がしっかり記憶に残っているのです。そのことに気づいて、講座の中で自分がしていることの意味について考えてみました。

 もし、使われている語句を機械的に修正するだけで、文章をよりわかりやすくできるのであれば、コンピュータにでも可能かもしれません。修正プログラムさえ作ってしまえば、あとは直したい文章をコンピュータに読み込ませるだけです。しかし実際には、言葉の表面的な操作だけで文章がわかりやすくなるわけではありません。文章をわかりやすくするには、ただ書かれている言葉を機械的に置き換えるだけではなく、筆者が何を書こうとしているか、熟読を通して探り出し、書こうとするその内容を的確に伝えるにはどういう表現方法がふさわしいかを、じっくりと考える必要があります。

 私たちが講座で、配布された文章の欠点を探すときに行っていたのは、書かれている内容を読み取り、その内容に即した表現を探ることだったのです。私は無意識にそういうことをしていたような気がします。読みやすい文章にするために、教材の文章の小さな言葉にも注目し、筆者が何を伝えようとしているのか想像し、その上で伝えたいことがうまく伝わるよう、どのような言葉を使えばよいか考えていたのです。

 講座の後半では、新聞の社説などを素材に文章の要約がとりあげられますが、要約の際における個々の文の取捨選択にこそ、文章の理解力が求められます。まずは情報を圧縮するという観点から要約を行いますが、Aクラスの締めくくりの段階に来ると、さらに深い読み取りが要求されます。単に書かれていることを短くまとめるのではなく、ちょっとした言葉づかいを手がかりに、筆者が文章を書いた際の思考の過程まで読み取った上で、それを短く表現することが要求されるのです。文章を読むとはこういうことなのか、と目から鱗がポロポロと落ちるような気がしました。

 文章を書くために受講した文章演習講座Aクラスですが、読む力までついたような気がします。というのは、勤務先の大学では、他人が書いた文章についてコメントを求められることがあるのですが、文章にさっと目を通し、修正すべき点について、以前よりもずっと手際よく、しかも自信をもってコメントをすることができるようになったからです。受講中に学んだことは多く、もちろん、すべてを消化できたわけではないのですが、学んだことは確実に自分の中で根を張りつつあるようです。

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~高校生のみなさんに~集中力を高めよう!

東京大学大学院 新領域創成科学研究科 (筑駒卒)   岡崎 潤

1 SEGでの出会い

 1995年夏、「速読による能力訓練」はSEGに突然現れた。新しい講座好きだった高1の僕は、迷わずこの「能力訓練」1期生になることに決めた。受講するまでは、本当に「速読」で本が速く読めるのか? と半信半疑だったが、「夏期講習」で松田先生と一緒に来た方が、訓練ですごい数字は出すわ、本はとても速く読むわで、僕は衝撃を受けた。人間は訓練で相当伸びるものだと教えられた気がした。あの時は3時間×5回の講座で、せっかく訓練にも慣れ、本を速く読めそうになってきたところで終わってしまったのが残念だった (クリエイトのHP、SEG「速読による能力訓練」'95年夏に僕のアンケートがあります)。

2 集中力の重要性

 大学でそろそろ専門の勉強が始まる2年生の終わりごろ、僕は池袋にある「クリエイト速読スクール」に通い始めた。当時、僕はサークルで忙しかったこともあって、大学の授業を集中して聴けずにすぐに居眠りするような集中力しかなかった。そんな状態だったので、久しぶりのクリエイトの90分のトレーニングはきつく、終わるとぐったりしていた。
 ところが、5回目ぐらいから、終わってもぐったりしなくなり、10回も受講した頃にはあっという間に90分過ぎるようになった。この頃になると、大学の授業も寝ずに話を聴けるようになった。受講して40回目を迎えると、3,4時間研究に没頭しても平気なくらいに集中力がついた。受講回数はもう78回に達している。
 僕は、集中力がつくクリエイトの「トレーニング方法」が気に入っている。一つのトレーニングは1~2分で終わるので、一つ一つ集中する習慣が自然にできる。それが次々と行われるので、集中が持続する。さらに、毎時間違うトレーニングなので、飽きがこない。「飽きずに短時間の訓練を集中してトライする」プログラムが、僕の集中力を育んでくれたのだと思う。

3 教室の雰囲気

 教室の雰囲気がよいというのもクリエイトの魅力だと思う。部屋が小さいので、先生の目が行き届くのも魅力的だし、先生が堅苦しくなく、アットホームな感じなのも気に入っている。何より、10人の先生方がみな「ほめ上手」であるところは素晴らしい。ポイントポイントでほめられると、めらめらとやる気がわいてしまう。
 また、教室にはたくさん本が置いてあり、先生方がいろいろと本を紹介してくれるので、自分の好きなジャンルでない本を読む貴重な機会が得られるというのも魅力だ。

4 今まで受講してきて思うこと

 クリエイトの訓練は、大学受験・資格試験にも最適だ。だが、訓練に向かう「姿勢」が重要だと思う。はっきり言って、クリエイトは人気がある。ここの特長は、受講生にTOEICや資格試験、高校・大学受験等の勉強が必要な人たちが大勢いることだ。「来れば何とかなる」という棚からボタモチ的考えで来る人は少なく、そういう気持ちで通うのは禁物だ。
 速読は必ず必要になる能力なのだから、頭の柔らかい若い時分にしっかりとした姿勢で身につけないともったいないと思う。もし、今ひとつ勉強に集中できないでなんとなく勉強している人は、それはまずクリエイトに通ってからスタートした方がよいのではないだろうか。

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文演Bクラス体験記 書くときの姿勢

はまだ りこ

 Aクラスを受けたのは、恋人に振られたのがキッカケだ。ひとりの過ごし方も分からなくなってしまった私は、彼に費やしていた時間と感情の持って行き場を求めてここへ辿り着いた。文章を生むために必要なエネルギーとして、時間も体力も想像力も、搾り尽くされてしまえばいい。そうすれば余計な自己憐憫をする暇もなくなって楽になる。失恋で負った痛みを、文章を書く苦しみとすり替えようと思っていた。
 しかしAクラスでは実際に書くことはなかった。書け書けとまくし立てられて、走り抜けるつもりの場所で、私はじっと立ち止まり、自分にとっての「書く」と向き合う羽目になった。

 私はもともと、書くことに関して成績が悪いほうではなかった。小学生のころは父兄参観日に読むクラス代表の作文に選ばれたり、夏休みの宿題の読書感想文を「よい例」として二学期の授業で配られたりもした。大人になるにつれ、誉められる機会はそうそうなくなっていくが、それでもどこか子供のころの得意意識みたいなものはずっと私の中にあった。母親が書きあぐねている、書きたくもないらしいお礼状を代筆したり、彼氏が一行も書き出せずにいた、社報に載るという体験記を代筆したりもした。どれも時間はそれなりにかかるし、決して簡単に書けるわけではないけれど、そのたびに大袈裟に誉められ、感謝されることに満足していた。

 Aクラスが終わるころ、私は今まで自発的に書いていないことに気づいた。私はりんごを描いてと求められたときに、りんごを描くことができただけに過ぎなかった。確かに描けない人だっている。それよりはマシだ。けれど、「マシ」の烙印を押されることは、私には我慢ならなかった。
 私は泳げない。私は速く走れない。私は自転車に乗れない。私は容姿端麗でない。会社勤めがままならないほどの馬鹿ではないが、頭脳明晰とはとても言い難い。才能とか、能力とかの部類で、文章を書くことだけが唯一、多少なりとも人より秀でている気にさせてくれるものだった。
 自由に何か書いてごらんと言われたら、私は筆を進められるだろうか。自信がなかった。優越感に浸って見せびらかしてきた自慢のブランド品が、ニセモノ疑惑にまみれた気分だった。確かめなければと思った。テーマを与えられないでも、自分はちゃんと何かを生み出せるんだと安心したかった。書くことは取り柄だという自信を取り戻さなくてはならなかった。
 私はBクラスを受講することに決めた。

 思いの外すぐに、私は安心を手に入れることができた。受講意志を教室に伝えると同時に、何かひとつ、作品を提出するきまりがあったのだ。期限に少々遅れはしたものの、私は書けた。りんごを突き出されなくても、3,000文字の作品を提出できたことに、私は安堵していた。
 Bクラスでは、とにかく書かなくてはならなかった。受講生おのおのが自身で書いた作品を提出し、提出順に講義で取り上げ、批評を受ける。自分以外の受講生から、そして松田さんから。作品を提出しなければ、もちろん批評はもらえない。しかし、書けば必ず、講義で時間を割いて丁寧な自分向けの批評をもらえる。
 この「自分向け」というのが大事だ。通り一遍の書く方法でいいなら本だって出ている。自分の書いたもの一行一句に向けられる生の指摘は、直接に患部にすり込む薬のように効く。
 しかしそれは同時に、自分自身が他の受講生に薬を出すということでもある。他人の文章に違和感を感じていながら言葉にできない歯痒さでいっぱいになる。的を射た「薬」を出せずに「なんとなく」という語彙を連発する自分にがっかりさせられる。書くために考えて、読むためにも考える。Bクラスは何しろエネルギーを要した。

 しかしともかく私は書けたのだ。第一回目に取り上げられた私の作品は、想像していたよりはるかに多く指摘を受けはした。それでも揺らいだ自信が取り戻せそうだった。自由に書けと言われても書けるのだ。薬を処方してもらって、これからはきっと、もっとよくなっていくのだ。走るのが遅くとも、自転車に乗れなくても、それがどうしたとまた笑い飛ばせる。
 「文演は道徳の時間じゃないですからね。よい子の意見なんて書かなくていいんですよ」
 三回目の授業での松田さんの言葉だ。私は顔を上げた。その日取り上げた提出作品は、品行方正な内容で、誰も異論を唱えそうもない思いやりのある結論で結ばれていた。「ここにいるみなさんは、優等生ですよね。ある程度、学校の文章を書きなれた人が多い。教師が誉めてくれる結論をよく知っている。でも、それじゃありふれた一般論に過ぎないんじゃないでしょうか。ここでは、いや、これからは、その先を書かなきゃね。考えなくちゃね」
 私の作品に向けられた言葉ではなかった。それでも松田さんの言葉がいやな予感のする響きとなって私にまとわりついた。今まで自分の書きものの成績が良かった理由を言い当てられたような気がした。私は手元で、一回目の講義で使った自分の作品を広げ、授業中に試験勉強をする学生のようにこそこそと盗み読んだ。

 松田さんは私の書いたその結末を、センチメンタルだと言った。ありきたりだとも言った。私は、乙女チックな平均点と言われたつもりでいた。誉められたとは思わなかったが、そう悪くもないのだろうとそのときは受け取っていた。ところが改めて読むとそれは、道徳の授業のときによい子の主人公を皆でけなした、教育テレビのドラマみたいな終わり方に見えた。自分で書いたものなのに、よそよそしく感じた。

 テーマを与えられないと書けないのでは、と不安がっていたのは的外れだった。私が拠り所にしていたのは読み手だ。その時々の読み手の立場に先回りして、同調しやすい一般的な結論を見つける。そこに正義感や道徳観を交えて書くと、優等生のそれらしい、ちょっと見に立派な意見が組みあがり、読み手はそうだもっともだとうなづく。私は誉められやすいセオリーを周到に繰り返していたのだ。
 しかし、セオリー通りの文章には私がいない。読み手好みにしつらえた内容の中に私の居場所は無いのだ。個性を主張しすぎない優等生が、のっぺらぼうのようにそこにいた。無意識でしてきたことだった。もう何十年もこうやって文章を作ってきていた。思わぬところで、ずる賢い自分の正体を見てしまったように思った。
 誰に見向きもされないような文章を書きたいわけではないから、読み手を意識すること自体を悪いとは思わない。しかし、書いた私自身が住んでいない文章なんていやだ。読む人が気に入るかどうかが、いつから基準になってしまったのか。ずる賢い私ならばそのずるさでもいい、表現しなければウソだ。私が私として、文章中に存在しなければ、私以外の誰が書いてもいいことになってしまう。

 今回のBクラスで私は三作書いた。読む人の顔色ではなく、自分の本心に焦点をあわせて書くと、生み出す苦しみは同じでも、書き上がったときの達成感というか、満足感のようなものが違ってきたように思う。三作目を書いたとき、自分がそこにちゃんといるような気がした。書いているとき、書き終わったとき、気持ちいいと感じていた。本心を書こうとすると、自分の中の何かがおもてに出てくる気がした。
 自分が書きたいと思ったとおりに、自分の根っこを表現して初めて、「書いた」ことになるのではないだろうか。それを面白いと感じてもらえるかどうか、人から誉められるかどうかは、ただの結果だ。しかしそう思えるようになるには、まだ時間がかかりそうではある。
 書くことに対する姿勢を今回のBクラスで学んだのだと思う。

 もうあの失恋からは、何かとすり替えなければならないほどの痛みは感じなくなった。取り柄だの、自信だのはもうどうでもいい。私はあの、書こうとすることで自分の根っこに辿りつく感じが欲しい。書きたいものの在り処には、本当は外に出したかった自分の本心がフタをされて埋まっている。私は、二回目のBクラス受講をとうに決めていた。