大学合格体験記集

文章表現スキルアップについて

ゴキブリと僕

山下 修平

 誰でも家庭内でなにかしらの役割を課せられていると思う。風呂洗い、食器洗い、洗濯、などなど。僕自身いくつか担っている役割があるのだが、その中に「ゴキブリ退治」というものがある。「一番生態系が似ていそうだから」という意味不明な理由と「一匹につき十円」というバイト料を提示されてこの役を押しつけられた僕のゴキブリに対する気持ちは複雑だ。

 片方の手に台所用洗剤をもち、もう片方に円筒型に丸めた新聞紙を握りしめる。これが僕の戦闘スタイルだ。スプレーも欲しいところだが、家にある虫よけスプレーでは高い移動能力と生命力を合わせ持った奴らをとらえることは不可能である。ひとふきで奴らをノックアウトできる強力なスプレーが市販されているようだが、あいにく僕の家にはない。よって僕のゴキブリ退治はより原始的な方法で行われる。

 まず、ゴキブリの進行方向に、もしくは体に直接洗剤をふきかける。そして洗剤の粘性に脚をとられ、動きが鈍ったところに新聞紙をふり下ろす。つぶれて、ベチャッといかない程度にたたきのめしたあと、ティッシュで包んでトイレに流して退治終了となる。しかし、実際はそんなにスムーズにうまくいくものではない。なにしろ奴らはすばしっこく、打たれ強いのだ。洗剤を吹きかけてもうまくヒットしないこともあるし、ふり下ろす新聞紙をスルリとすり抜けていくこともある。よって大体の場合は洗剤をかけ、新聞紙でたたいて、追いかけて、の繰り返しとなる。そしてゴキブリ一匹退治し終わった時には、玄関や部屋などに台所用洗剤が飛び散っているという異常な事態が起こってしまうのである。

 たいていの場合は「逃げていくゴキブリを追いかける」という構図になるのだが、時には先制攻撃を受けることもある。

 ある夜、尿意をもよおし目をさました僕は眠い目をこすりながらトイレに向かった。そしてドアを開けると何かがポトッと肩に落ちてきた。なんだろうと思って肩に目をやると、まさしく目と鼻の先に黒光りする奴の体があった。眠気は一瞬にして吹っ飛んでしまった。危うく大声をあげそうになりながら、必死にそいつを剥ぎ落とし、トイレのスリッパを握って構え直した時にはもう奴の姿はなかった。

 また、こんなこともあった。

 いつものように一匹のゴキブリを追い回した僕は、とうとう廊下の隅に追いつめた。奴は必死に逃げようと壁をよじ登ろうとしている様子だったが、その壁は板張りで出来ていたため、なかなか思い通りにいかないようだった。もはや終わりだ。僕は勝利者の立場でしばらくじたばたしているそいつを見下ろしていた。が、やがてとどめを刺すべく握っていた新聞紙をかけ声もろとも振り上げたとき、奴は飛んだ。ごていねいにも頭と振り上げた腕とのわずかなすき間をすり抜けて。

 これには参ってしまった。もちろんゴキブリに羽があることは知っていたが、それまで一度も飛んだところを見たことがなかったので、それはとっくに退化してしまったものだと思い込んでいた。しかし奴らは羽をかざりものとしてではなく、むしろ逃走のための最終手段として温存していたのだった。かくして「ゴキブリが飛ぶ」という悪魔的な光景を目にしてどぎもを抜かれてしまった僕は奴を追いかけていく気にもなれず、腰が抜けたようにその場にへたりこんでしまったのだった。

 僕のゴキブリに対する気持ち。それはルパンを追いかける銭形刑事の気持ちに似ているかもしれない。彼はしょうこりもなく悪さを繰り返すルパンを執拗に追い回しながらも、そのことを生きがいとし、また奇妙なことにルパンに対して友情にも似た感情をいだいているのだ。かといって僕がゴキブリを追いかけることに生きがいを感じるわけではないし、ゴキブリに対して友情をいだくわけでもない。手でつかまえられるか、と聞かれたらもちろんノーだ。ただ、出てこないに越したことはないが、出てこないと何か物足りない。そういうことなのだ。それは「一匹ごとに十円」というビジネスな面の話のみではなく、追いかけ、つかまえ、時には逃げられ、時には思わぬ不意打ちをくらったり、ということをくりかえす内に生まれてきた感情だと思う。

 また夏が来る。湿気が多く、残飯なども腐りやすい中、水分を好み雑食性であるゴキブリの出現率が高まるのは必至だろう。その度に僕は、ピストルの代わりに洗剤を放ち、手錠の代わりに新聞紙を振り回すのだ。

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