体験記

クリエイト速読スクール体験記 '01

'01年推薦文 初めて知った読み方、書き方の技術

虎の門病院医師
現 西荻ペインクリニック院長
河手真理子

◆祝 絵理子さん! 01年 旭川医科大学医学部現役合格!
◆祝 賢太郎くん! 03年 東京大学文科I類現役合格!
◆祝 森彦くん!  10年 慶應義塾大学医学部現役合格!

SEG「速読による能力訓練」

 ある日、SEGの講習案内を見ていた私は、「速読による能力訓練」という講座が新しく開かれることを知りました。SEGは大学生、社会人になったときにも役立つような教育を考え、つねに新しい方法を模索している、数学では全国的に有名な塾です。そのSEGが推薦する方法なら、これはいけるかもしれないと感じました。長女の絵理子に受講させたくて、ことあるごとに家で「読書」や「速読」のことを話題にしていました。絵理子がようやく決心したのは、SEGで速読の講座が始まってからもう4年がたっていました。
 SEGでの「速読」の初日、当時高校2年生の絵理子は帰ってくるなり「すっごくおもしろかった」と興奮気味でした。いつもおとなしい娘にしては珍しい反応で、次から次に訓練の内容や教室でのエピソードを鮮やかに話してくれました。そして「池袋の教室に通いたい」「文章表現スキルアップもぜひ受けてみたい」とまで言うようになりました。
 絵理子が夢中で話してくれる松田先生の講座に、私はすっかり好奇心を刺激され、ついに私も「池袋の教室に通おう」と決心したのです。

効率の良い教育法

「本がもうちょっと速く読めるといいな……」
 何十年も前から私の心の片隅に潜んでいた気持ちです。本が少し速く読めれば、命の時間が永くなるような気がしました。限られた時間でたくさんの本が読めれば、一人で何人分もの人生が送れるような気がしました。クリエイトなら、私にもできるかもしれないと思いました。
 子供たちの知的好奇心を満たすために読書という方法を教えてあげれば、知識を自ら獲得していくでしょう。そして自分で得た知識は印象深く記憶に残るはずです。あれこれ何かを教え込むより効率の良い方法かもしれないと思い、小学3年の森彦も池袋の教室に通わせることにしました。そしてSEGでの「速読」を受けた高校1年の賢太郎が池袋に通いたいと言いだすのにさほど時間はかかりませんでした。
 こうして我が家は速読家族。成績を報告しあって誉めたり誉められたり、慰めたり慰められたり。でも本当は皆密かにライバル意識を燃やしているのです。もちろん速読訓練は人との競争ではないのですが、競争の要素が少しでもあると楽しさが違います。

SEG「文章表現スキルアップ」

 絵理子は速読のほかに宣言どおり、高校3年の一学期にSEGで「文章表現スキルアップ」を受講しました。授業プリントへの書き込みや、絵理子の作文にぎっしりと書き込まれた松田先生のコメントを見ていると、授業の雰囲気や、先生の一所懸命な様子が伝わってきます。絵理子は初めて理想的な国語の授業を受けた印象を持ったのではないでしょうか。「文章表現」のクラスで高3生は一人だけ。受験に向けて日毎に厳しくなるスケジュールの中、二学期はやめるのかなと思ったら、将来役立ちそうだから続けたいと言います。その考え方に私も大賛成でした。普段は強く意思表示をしない娘の言葉に正直言ってびっくりしました。
 「たくさんの資料を読み、自分の考えを織り込みながら表現する」、これは学問を修めるためにはもちろん、将来どんな職業に就いたとしても必要な大切な技術だと思います。その技術習得に「速読」と「文章表現」は最適の講座ではないでしょうか。
 これから大学で何かを学ぼうとするこの時期に、娘がいい先生いい講座に巡り会えたことは本当にラッキーだったと思っています。

速読訓練

 訓練は工夫されていて楽しいものがいろいろあります。人より速くできた時や、難しいものが全正解の時などは思わずガッツポーズが出てしまいます。もちろんため息が出る訓練の方が多いのですが……。
 イメージ記憶訓練には悩まされます。二つの言葉を関連づけた絵を瞬時に頭の中に描いて、2分間に40組の言葉を覚えるのです。「雪だるま」-「歩道橋」、雪だるまが歩道橋を歩いている絵を描きます。「儒教」-「気体」、あ~あ、これはどんな絵を描けというのでしょう。固くなりつつある頭にはつらいものがあります。
 最後の30分に実際の本で速読訓練をします。ここでいろいろな本を読みます。今までは学術書がほとんどだったのに、テレビでドラマ化された小説や抒情的な本など、自分では決して選ばないようなジャンルの本も読むようになりました。いろいろな生き方がある、いろいろな考え方があるんだと、私は今まさに心の世界が広がるという言葉そのものの経験をしているところです。
 三人の子供たちはどうでしょう。本を読んでハッとするような思いを経験しているでしょうか。主人公になりきって新しい世界で活躍しているでしょうか。少なくとも今までより楽しみはずっと増えているはずです。

「文章演習講座」

 今、私は「文章演習講座」Aクラスに籍をおき、20代・30代の若い人たちに混じって文章の基礎を学んでいます。さまざまな文例を読んでおかしいところを指摘するのです。みんな言いたい放題。とんでもない批評が飛び出すこともあります。正解でなくても一人ひとりが感じたことを言うこと自体が勉強になるのでしょう。収拾に困っている松田先生を見るのも楽しみの一つです。その困った顔から隠しきれずに笑みがこぼれるのを私は見逃しません。もしかして文章演習を一番楽しんでいるのは私たち生徒ではなくて松田先生かもしれません。
 仕事柄、文章はたくさん書いていました。文章演習のおかげで、すばやく客観的な目で読めるようになりました。読みやすい文章にするための推敲の時間が大幅に短縮できるようになりました。夜10時過ぎまで続く文章演習講座。貴重な時間を費やしても得るものはきっとある、と受講を決心した私の直感は正しかったようです。誰も教えてくれなかった読み方、書き方の技術。こういう授業を子供のころに受けたかったと、講座に出るたびに思っています。

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2001年速読&文演体験記 なぜクリエイトの速読訓練なのか?

平成13年 第98回日商簿記検定1級合格  高田 真美

1 本を読むという苦痛

 私は本が大嫌いだった。あんな小さい、文字だらけのものを、何時間も椅子に座って読むなんて苦痛は、とにかく落ちつきのない私には耐えられないことだった。漫画なら苦労しなくてもストーリーがつかめてあっという間に読み終わる。まさに文学少女ならぬ漫画少女だった。恥ずかしいことに、小学6年生に『ズッコケ少年探偵団』をクラスの友達との会話を合わせるために半ば義務感で読むまで、私は本というものを初めから終わりまで一冊通して読んだことはなかった。「ドラえもん」ののび太君ではないけれど、本を開けば眠くなる。たとえページをめくることができたとしても、頭の中は今日の晩ごはんはなんだろうなんて考えている。だから結末まで至るプロセスを知らずに、取りあえず最後だけ知っておくか、なんて感じで巻末の10ページくらいを読んで‘読書’をした気になっていた。

 中学でも、高校に入っても、そして浪人時代をへて大学に入学してからも、本嫌いが治癒するということはなかった。タイトルに惹かれて本を買ってみても、いつの間にかインテリアの一部になり、本だなでホコリをかぶって年末の大掃除で消えてしまうという、本にしてみれば悲惨な運命を辿らせてしまっていた。ただ、受験という必要に迫られて、試験問題程度の短い論説文のようなものはそこそこ読んでいたし、実用書などをぱらぱらと立ち読みすることは暇つぶし程度にやっていた。そして、新聞も嫌いではなかった。文章が短かったから。だが文章の比較的長い‘社説’のほうは、もちろん読んだことはなかった。

2 本を読んできていなかったということ

 だが、あまりにも「読書」という行為から自らを遠ざけていたために、自分が書く文章、述べる意見、そして私が普段使う日本語そのものが、周りの人間達が使うそれと比べてあまりにも貧弱で、浅はかなものであるということを認めざるをえなくなってきた。そして、資格試験の勉強を始めても、結局本になったものを読むという習慣のなかった私にとっては、テキストのページを最後までめくることすらも、苦痛でしかなかった。当然に、集中力も散漫というより、ほとんどゼロという状態であった。
 「これじゃぁ、いくらなんでもまずい」

 ジレンマにうなされる私が5月末の資格試験(公認会計士)の試験会場前でもらったものは、クリエイト「以外」の某速読学校のパンフレットであった。「こういうことを身につければ、私も本を読むことができるようになるだろうか?」溺れるものはなんとやら、かたっぱしから速読と名のつく学校を調べるようになった。「一冊の本も満足に読むことも出来ない人間が速読だぁ?」もう一人の自分の嘲笑を心の奥底で感じつつも、ネットサーフィンをしているうちに、クリエイトのHPに辿りついたのであった。

3 クリエイト速読スクールに入るまで

 HPの論理的で正確な表現に、ここなら大丈夫だろうと直感的に感じた。比較材料として別の速読学校の体験も行ってみたが、やはり女のカンはなかなかだったようで、あったかーい雰囲気のクリエイトに入会することにした。もちろん、訓練プロセスの論理立てが際立っているからというのは言うまでもない。
 とはいえ、入会すると一口に言っても、大学はおろか専門学校の費用まで親に出してもらっている私にとって、さらにスクールの費用を出してもらうのはとても心苦しかったから、全部自腹を切ると決めていた。ゆえに、絶対にモノにしてやろうと思っていた。どんなことがあっても。結果的には、この貧乏人根性が私をそこそこのレベルまで引き上げてくれる原動力となった。

4 訓練について~資格試験受験生の視点から~

 クリエイトには、まるでゲームのような訓練がたくさんある。そのなかで、私にとって効果があったと思われる訓練は、「たて一行ユニット訓練」、「ロジカルテスト」、「イメージ記憶訓練」、「イメージ読み訓練」、そして「倍速読書訓練」である。クリエイトに入会されている方ならおわかりのように、まさにクリエイトの核とも言えるようなこれらの訓練は、ひとつひとつが大いに勉強の場でいかされている。

 「たて一行ユニット訓練」は、私のような受験生にとっては、試験問題の問題文の読みおとしが少なくなるという効果があったし、集中力が養えた。私は、「たて一行ユニット訓練」では初めに課題として出された文章の形(文字の形、といったほうが適切なのかな??)を頭の中に焼き付けてしまって、そのイメージを出来るだけはやくページをめくりながら探すようにしている。これが案外集中力のいることで、ちょっとでも気を抜くとすぐに記録がダウンしてしまうので、とにかくダウンだけは避けたいとやっきになっているうちに集中力が備わってきた。

 「イメージ記憶訓練」は、集中力が養われるだけではなく、テキストなどで覚えづらい個所があった時に、その言葉から連想するイメージを追求していくことによって、そのイメージを思い出すだけで該当部分がすらすらと口から出てくるようになった。

 そして、たくさんの‘覚えなければならない’文章に接する受験生にとって、「イメージ記憶訓練」と並んで絶対に得意にしておいた方が良いと思われるのは「イメージ読み訓練」だと思う。「イメージ記憶訓練」の文章版が「イメージ読み訓練」のような感じがしないでもないが、「イメージ読み訓練」ではまた違った能力が養えると思う。非常に限られた短い時間の中で、結局そのお話がどのような流れで進んでいったのか、そして何がテーマであったのかを意識しないと記録用紙にたくさん書き出せない。それゆえ、文章の中のポイントをすばやくつかむという能力が養える。

5 訓練について~私はどのくらい読めるようになったか?~

 「倍速読書訓練」。これがクリエイトの授業で常に授業の最後に行われ、どれほど訓練の成果があったかのバロメータとなるものだが、私はよく先生方がおっしゃる自分への負荷ということをつねに念頭に置きながら読んでいる。
 これは「たて一行ユニット」やほかの諸訓練にも言えることであるが、「こんな速さじゃぁとても読めないよ~」というスピードでページをめくっていく。最初は、当然読めない。でも、人間の適応力はすごいもので、いつしか、文字をとらえられるようになり、文章として入ってくるようになり、内容がわかるようになってくるのである。だから、どんなに体の調子が悪くてやる気がないようなときにも、ページをめくるスピードだけは落とさないようにした。

 入会時には1分間に1,100文字の読字数であったのが、受講10回目あたりで1分間10,000字台になり(北村薫『スキップ』)、24回目で1分間20,000字台に突入し(アルビン・トフラー『パワーシフト』)た。
 36回目からは1分間30,000字台で安定している。
 受講39回めでは、松岡圭祐『千里眼』小学館P3~P430を約8分で読了した。

 天童荒太『永遠の仔上・下』帚木蓬生『逃亡』中嶋博行『違法弁護』柳美里『ゴールドラッシュ』宮本輝『オレンジの壺上・下』沢木耕太郎『深夜特急2・3』杉山隆男『メディアの興亡上・下』宮本輝『青が散る』森絵都『DIVE!!1・2』佐藤多佳子『神様がくれた指』一橋文哉『オウム帝国の正体』久間十義『ダブルフェイス』辰巳渚『「捨てる!」技術』浅田次郎『蒼穹の昴上・下』宮元純『ストーカーの恐怖』鈴木光司『らせん』妹尾河童『少年H上・下』宮本輝『私たちが好きだったこと』佐藤正午『ジャンプ』森川直樹『あなたがホームレスになる日』などなどが、その頃教室で読んだ本である。

 回数と比例して数値が伸びているように見えるが、もちろん停滞期がなかったわけではない。しかし、意地でも次の回では今回よりも一つでも伸ばす、ということを意識していたので、停滞期があってもそれが全体に与えた影響は少なかったと言えるだろう。

6 ロジカルテスト

 4つの役にたったと思われる訓練の名前を挙げたが、この「ロジカルテスト」だけは特別な思い入れのある訓練であったので、章を別建てしてしるしたい。はっきりいって、超・超劣等生だった。一時は「ロジカルテスト」がいやでクリエイトへ行くのをためらったこともあったほどだ。今となって振りかえれば、「ロジカルテスト」への問題の取り組み方や認識そのものに根本的な誤りがあったためだが、問題は終わらないし、間違えるし、頭のなかはこんがらがるしでそれはもう目の当てることの出来ない成績であった。しかし、講師の方に相談をし特訓を積んだことで、やがて苦手意識がなくなり、今ではロジカルのためにクリエイトに通っているようなありさまである。

 考えて見れば、自身の勉強においても、それまで苦手意識がある分野には具体的な対処をするわけでもなく、苦手意識を引きずりながらその分野が試験に出ないことを祈りながら勉強していた。しかし、苦手分野は努力すれば克服しうることを、また視点を変えて見てみれば案外スルリと通り抜けられることを体験的に気付けたのは、「ロジカルテスト」で得られたもっとも重要な財産である。

 つまり、ここで言いたいのは、苦手意識のある訓練メニューはとにかくなぜ苦手なのか、どうやったらマシになれるのかを徹底的に考えるべきである、ということだ。そしてその背景には、それまでの問題解決能力や情報処理能力上の欠点がかならずあるはずなので、そこに目を向けて反省し、活かして行くことが大切だと思う。クリエイトのゲーム的訓練をいかに普段の自分にブレイクダウンさせて行くかが、クリエイトの訓練を持続して行く上でもっとも重要であろう。

 あと、どうしてもクリエイトに来ることができない時は、クリエイト生おなじみ、松田先生の『知的速読の技術』を用いて寝る前の数分間でもサッケイド訓練をしたりしていた。また、この本には各訓練の目的なども書いてあるので、数値が伸び悩んだ時の解決策を策定するためのみちしるべとしても役に立った。

7 訓練を受ければ資格試験に合格するのか?

 答えは、ノーだと思う。
 もちろん、ただ訓練を受けているだけでは、という意味でである。

 勉強しなければ受かるわけはないという揚げ足的な言い方をここでしているつもりはない。ただ、クリエイトは受講すれば誰でもみんなが目的の試験にラクラク合格という魔法を得るための場所ではないと思うのである。クリエイトは、「こういう頭の使いかたをすれば従来自分がやってきた勉強方法よりもより効果的に、効率的に勉強が出来るようになるけれど、どうでしょうか?」という提案を我々にしてくれる場所であって、それを受け入れて自分のものにするか否かはその人のやる気や受容の姿勢によると思う。

 たとえば、一字一句正確に記憶しなければいけない科目があるとして、いくら速く読めるようになったからといって項目項目に対する具体的なイメージを持つこともなくただ速くまわしてわかった気になっているだけでは、いつまでも正確に書けるようにはならない。「イメージ記憶」「イメージ読み」の感覚で覚えて行く必要があるだろう。それとは反対に、もう理解できているページについて熟読しても意味はないから、速読して効率的に復習するということもすべきであろう。
 また、テキスト1ページにつき、理解度Aで2分、理解度Bで1分というふうに「倍速読書訓練」の考え方を取り入れていくと、同じページをただぼんやり眺めて時間のロス、と言うことは確実に減る。頭の使い方もメリハリがついて、無駄な労力を消費しなくてすむ。

 訓練を日々の勉強にブレイクダウンして行くということを絶えず意識して行くことによって、知らず知らずに合格に近づいていくということはありうると思うし、そうありたいと願っている。

8 速読が受験生にもたらしてくれるもの

 私はクリエイトで速読という産物をわずかだが手に入れることが出来た。
 では、専門学校のテキストを速読しているかというと、全体像をつかむために300ページくらいのテキストを1日で読んでしまうということはあるけれど、それ以外はまずやっていない。
 専門学校のテキストや学者の書いた本は専門書なのだから、教室で出しているスピードよりも2~3倍劣るのは深い理解も要求される以上、速読では把握し得ない、あるいは把握しきれない内容も含まれるのは仕方のないことである。しかし、である。クリエイトに通うことで従来自分が読んできたスピードよりも2~3倍速度が上がるとして、専門書を読む時に同程度しか下がらないですむなら、普通の受験生よりもはるかに速いスピードで読めているはずなのだ。こんな言葉があるかどうかはしらないが、「読む速度のリスクヘッジ」は速読をやることによって可能なはずである。

9 集中力がつくと疲れにくくなる

 そして、特筆すべきは集中力がつくということだろう。読書でも勉強でも、その内容に集中できていれば自ずと理解は深まるというのは至極当然の話で、集中力がつけば疲れにくくなる。1分、2分という一見集中力を養うには時間的に短く思える訓練であっても、「集中する」という習慣を身につけることが出来るので、2時間・3時間の勉強でも疲れなくなってくる。私たちの生活の中で、脳は半分も使われていないと聞く。その脳がフルに使われるという感覚を、クリエイトでは身につけることが出来ると思う。

 クリエイトに来たことで、集中力が高まり、今までは週1回でもできればオンの字だった長時間の勉強も苦痛なくできるようになった。電車の中でも、自分の世界に没頭して文章の暗記も出来るようになった(以前は周りが気になって出来なかった)。専門学校で2時間の答練を受けた後も、前はクタクタで頭はガンガンにイタイという状態だったが、まるで2時間頭を使いっぱなしだったという事実がなかったかのように、すぐに配られた解答を読んで勉強している今の自分に途惑いさえ感じる。

 クリエイトがくれた集中力という産物。そして集中力の向上がもたらしてくれるメンタル面でのゆとり。クリエイトに入会したことによって出会うこととなったもう一人の自分に対して、途惑っているのはきっと「あの時」嘲笑していた自分なのだろう。「速く読める能力」しか身につけさせてくれない学校だといささか斜めに見ていたに相違ない。今となっては、本当にとんでもない誤解であった。

10 日々の読書に活かされているか?

 クリエイトの訓練によって、私は本を一冊読めるようになった。単純なことだけれども、これはクリエイトに入会したことで得られたもっとも大きな収穫だ。文庫本程度であれば、往復30分の電車のなかで一冊は十分に読める程度にはなった。集中力と理解力がついたお蔭で、感情移入も出来るようになり、面白い部分をニヤニヤしながら読むということも出来るようになった。以前は読んでも内容をさっぱり覚えていないなんてことも多くて、読んだ意味がないと思ってしまいさらに文字嫌いになってしまう、という悪循環だったが、文字に対する抵抗感がなくなったことで熟読もしっかりできるようになり、本の中身を要約して述べるということも出来るようになった。

 また、苦手意識のあった日経新聞も、相当なスピードで読めるようになった。本によって心が豊かになるという経験ができるようになったということは、速読訓練をすることで当然に得られる成果なのかもしれないが、文字嫌いだった私にとっては、速読なくしては得られなかった成果なのであった。それから、読む、ということには直接関係がないが、人の話に集中出来るようになり、人の話を聞くことが楽しくなってきた。

11 もっとも大切なこと

 やはり、通いつづけるということである。
 仕事や学校が忙しかったり、数値が伸びないからといって通うのをためらってしまうのはもったいのないことだと思う。事実、私も「ロジカルテスト」の出来の悪さからクリエイトに行きたくなくなった、ということはあった。数値が伸びないというのはもっともやる気をなくす事実ではあるけれども、これは自分の欠点を客観的にみることができる好機だと捉えてふんばれば、必ずグイッと伸びるときがくる。
 私自身も学校が忙しくてあまり通えないときがあったが、忙しいからといって通わないよりも、忙しい合間を縫って受けたほうが、集中力を維持する観点からは良い。1時間半の気分転換がもたらしてくれる効用は非常に大きいし、クリエイトの訓練は遊びではなく自分を磨くためのものなのであるから、惜しまず通うことが大切であると思う。

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文章演習講座Aクラス受講記

第27期生  高田 真美

1 文章演習講座Aクラス~受講の本当の理由~

 「高田さん、文演受けてごらんよ、絶対得にはなれ損することはないからさ」
 夏のある日、私は松田さんからそう誘いを受けた。文演……、ねぇ。

 正直迷っていた。なぜなら、受験予備校などによくありがちな小論文講座=文章演習講座と思っていたからだ。世間的に受けの良い文章ばかりを読ませて「こういうふうに書けたら良いですね」というような。
 だから「ハナキン」の夜の時間を割いてまで受ける価値があるのかなぁ、という気があったし、別に作家になるわけでも何でもないんだから演習まですることないんじゃぁないのか、と思っていた。でもそんなのはうわべの理由にすぎなかった。

 今だから明かせば、本音では怖いと思う気持ちがあった。小・中学校のとき作文は得意で、当時住んでいた区から賞をもらったこともあった。しかしいつからか、速読の受講体験記にも記したごとく自分の使う言葉の未熟さに気付いてしまい、その未熟さが露呈される「文章を書く」という行為に恐れを感じるようになっていたのだ。
 それを見ぬかれてしまうだろう。受講すれば、きっと。だがその一方で、「そのままで良いのか?」と問い掛けるもう一人の私がいた。逃げ腰になっている自分がなんか嫌だった。
 「…いっそゼロになったつもりで吸収してみよう!」
 後日、松田さんに「やります、頑張ります」と告げた。それでも心では、びくびくしていた。

2 どんなことをするのか

 しかし、初回の授業でそんな恐怖心を持たなくてもよかったことを知る。
 「文章は書いても書かなくても良いですよ、皆さんの文章をここで扱ってああだこうだということはしませんから。それはBクラスに行ってからです」
 内心ほっとした。だがその後レジュメが配られ、次に発せられた言葉で私は頭の中が真っ白になる。
 「この文章、どこが変ですか?」
 そんなことは小論文講座でも、国語の授業でも、訊かれたことのない質問だった。文演は「良い」「きれいな」「すばらしい」文章を模倣するための演習をしましょう、という講座ではなかった。いわば逆転の発想。悪例から学ぶ、というスタンスがそこにはあった。

 松田さんから手を変え品を変え質問がぶつけられる。そのたびに頭をフル回転させる。正直、皆目見当がつかないというときだってある。書き手は何が言いたくてこのような書き方をするのか。文章を書くときにおかしてしまいがちなミスは何か。この指示語の使い方は正しいのか。読み手にわかりやすく書いているか……などなど。どきりとすることだって幾度となくあった。同じミスを私もしていたから。まるで自分のことを言われているようで、それはそれは恥ずかしいと思うときもあった。受講生なら一度は味わうであろう、この「恥ずかしい思い」がひそかにできるというのも悪例から学ぶスタイルだからこそ得られる醍醐味だ。恥ずかしいと思ったことはいやでも心に残るものである。

 さらに、速読を受講していても周りで受けている人の人となりは分からないものだが、ここではざっくばらんにゼミナール形式で意見を出し合う。同じく受講している人たちの意見に感心させられたり、鋭い指摘に度肝を抜かれたり、自分の読みの甘さを痛感したりという刺激を受けたことも良かった。真剣さの中にも笑いありの和やかなスタイルは、リラックスをして思考に集中するには格好の環境だった。

3 書くことと、読むこと~読み方にも影響をもたらす!?~

 さて、この《「どこが変?」→頭フル回転》の繰り返しが私の本の読み方や、文章を書くときの注意の払い方を変えつつある。
 本を読むにあたっては、速読で得た「スピード」と「理解しているか否か」という軸のほかに、「深く文章を解釈する」という軸がもうひとつできた気がする。言葉を変えれば、さらに注意深く読むようになったともいうべきか。参考書を読むときも言葉に注意して読むようになったので、速読のみのときと比較して一段と書いてある内容の定着が進んだ気がする。
 また、文章を書くときは冗長過ぎていないか、言いたいことは書けているか、というチェックを自然に頭の中でさーっとするようになって、推敲しながら文章を書くという姿勢がなじんできた。《「どこが変?」→頭フル回転》授業方式は受講生が自発的に頭を働かせ、その結果、文章を解釈する力をつけていくという点で画期的な方式だと思う。

4 受講してからの私

 ところで、冒頭に述べていた「恐怖心」は、受講してどうなったか。今になっても、文章を書くときはなんとなく気持ちがピリピリする。しかし、これは恐怖心がゆえではない。緊張感だ。
 そしてそれは、文章を書くということに対して今までよりも真摯でありたい、という気持ちが生まれたことに他ならない。身につけたことを活かして、悪文を書かないように努めたい。推敲をしながら書いて、それでも何回も何回も自分の文章を読みなおして、また推敲をしていくという作業をいつのまにか厭わなくなった私。そんな私が生まれただけでも、この講座を受講した意味は十二分にあると思っている。
 「本当に得にはなれ、損することはありませんでした」
 その言葉を添えて、この講座に誘ってくれた松田さんに感謝したい。

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2001年文演Bクラス体験記  文スキと文演について

堂園 昌彦

 文章については少々複雑な思いがあった。私は作文が大の苦手で、学校で作文を書かされるたびにいつも泣きたくなるぐらい悲しい気分になっていた。周りで級友の鉛筆が高らかに響く中に、一人脂汗を吹き出しながら白い原稿用紙をにらみ続け、結局一行も書けずに時間が終わるのがほとんどだった。仕方がないのでそんな日は家に帰ってから本当に泣きながら徹夜で仕上げていた。もちろん、そうやって書かれた作文の出来はひどいものだった。

 ただ、良い思い出もあった。小学三年生の時、物語を書けと言われ、普段では一枚書くのも大変だったのに、十枚以上書けた。なんだか楽しかった。また、中学生の時に通っていた塾に変わった国語の先生がいて、その授業でテーマを決めて書いた作文は面白かった。

 そういうわけで、文章というものに対していやな思いと楽しい思いの両方を持っていた私は、いずれ文章というものと決着をつけねばならないと思っていた。

 「文章表現スキルアップ」(以下、文スキ)を知ったのは、SEGという塾で速読の講習を受けているときだった。講習の最終日に松田先生が文章表現の話をした後、文スキのパンフレットを配布した。たった一時間の文章の話だったが、知らないことばかりだった。そして、知りたいことばかりだった。私は文スキを受けることにした。

 九月から始まった授業は、文例について互いに意見を言い合う会議形式で進んだ。はじめは先生と生徒が向き合う講義形式だったのだが、それではやりにくいと松田先生が机の配置を会議のように変えたのだ。引っ込み思案の私は、学校とは違うその形式に戸惑い、何も意見を言えないでいた。しかし、自分が考えたことが言えないとだんだんにそのことが自分の中にたまってきて気持ちが悪かったのでなるべく発言するようにした。そうすると今度は自分の意見が言えることが楽しくなり、最後には間違っていてもいいから発言する方が大事だ、とまで思えるようになった。

 私が自分の意見を言う楽しさに夢中になっているうちに文スキも後半に入った。この頃には文スキのある曜日が一週間の中で一番楽しみになっていたのだが、少し気がかりがあった。それまでの前半は見知らぬ人たちの書いた文章を文例としていたのだが、後半になると自分たちが文スキを始める前に提出した作文を取り上げられる。人間誰しも自分の問題点を指摘されるのはつらい。どんなことを言われてしまうのだろう、と恐れているうちについに自分の作文の番がきた。予想通りいろいろと問題点を指摘された。が、少しも悔しくなかった。先生の指摘する問題点が自分でもはっきりとわかったからだ。どうやら、他人の文章に対して考えたことを言ううちに、いつの間にか自分の文章を対象化して読む力が付いていたらしい。他の人も同様なのだろう。誰も文句を言い出す人はいなかった。

 こうして、九月から十一月まででとりあえず文スキは終わったのだが、十一月の最後の授業で松田先生はこう言った。「一月からも希望者がいれば続けます」と。すでに文章というものの虜になっていた私は即座に一月も受けることに決定した。まだ学ぶべきことはたくさんある、と思った。

 新たに文スキが始まった後、私は刺激的な体験をした。ある日の文スキの帰り道でのことだ。今日も楽しかったなと思いながら暗い道を一人で歩いている時に私は突然、本当に突然、無性に文章が書きたくなった。体の中から熱い何かが湧いてくるような感じ。あんなに作文が嫌いだったこの私が、文章が書きたくて仕様がなくなったとは。にわかには信じがたい気持ちを抱えながら急いで家に帰り、夢中でワープロのキーボードをたたいてその日のうちにある作品を完成させた。そんなに早く一つの文章を終わらせたのは初めてだった。その時の興奮は今でも忘れがたい。

 その作品は次の文スキの時に先生に提出し、授業で扱われた。夢中で書いた為ろくに推敲もしなかったから、たいそう文句が出るかもしれない、と内心怖かった。しかし、先生はとても褒めてくれた。これはいい作品だ、と。その時の私の嬉しさはちょっと文章では表せない。何しろ、作文を書いて褒められたのは生まれて初めてだったのだ。あんなにだめだった私でも成長できたのだ。

 このような気持ちは個人差があるにしろ、一月の文スキまで残った他の人は全員感じたと思う。私だけではなく、他の人のどの作品も九月の初めに書いたものと比べると見違えるほど中身のあるものになっていた。皆、文章にそれぞれの個性が感じられ、輝いていた。私の隣に座っていた友人は講習が終わった後、アンケートにこう書いた。「人はこの講座を受けることで確実に進歩できる」と。私も同じ思いだった。

 九月から二月までの合計十数回の授業を終えた後、私の文章に対する苦手さは消え去り、逆に完全に文章を書く楽しさに取り憑かれてしまっていた。それだけに文スキが終わってしまうときは非常に残念であった。せっかくこんなに楽しいものに出会えたのにやめてしまうのは惜しい。私は強くそう思い、松田先生にクリエイト速読スクール本校の「文章演習講座」(以下、文演)のBクラスに入れてもらえるように頼んだ。受験も控えていたのでそれなりの決意を持った行動だった。

 そして今、文演のBクラスに在籍している。各人が書いた作品を批評しあうのは一緒だが、SEGの文スキと違って、周りが大人ばかりである。さすがにBクラスなだけはあって、ここに在籍している大人たちの頭の鋭さは驚くほどで、見事に一番肝心なポイントを指摘する。頭が鈍い私はその鮮やかさを見て、毎回感心するばかりだ。さらにこんなに至らない高校生の私もきちんと対等に扱ってくれる。大人といえば周りには親と教師しかいなかった私には、とても良い経験となっている。今後もなるべく多くのことを学びとっていくつもりだ。

 私は文スキそして、文演を受けたことによって様々なものを得られた。文章が上達したことは言うまでもない。だが、私個人にはむしろ他のことの方が印象深い。自信を得られたことや発言の大切さや学ぶときの姿勢などが分かったことである。これらはかけがえのない財産だ。私はこの時期に「文章表現スキルアップ」そして、「文章演習講座」に出会うことができて本当に幸福だったと思う。

 「この講座をあまり人に教えたくない。周りの人間まで国語力がついてしまったらくやしいから」そう言って松田先生に笑われたことがある。実際にそれほどこの講座の効果は顕著である。人は互いに求めているものが違うが、この講座では、誰もがきっと何かが得られるはずだ。

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2001年文演Bクラス体験記  青山びすけ的文演受講記

青山 びすけ

敷居の高い文演

 なんだか堅苦しそうですよね。文章演習講座って名前からして。普段からバリバリ本を読んでて、眼鏡なんかキラーンとさせちゃって、図書館にはもちろん毎週通い詰めてて、気になる作家の新刊が出れば仲間と夜な夜な文学談義して、1年前から書き溜めている長篇をひそかにナントカミステリー大賞に応募しようとしてたりして、もしかするとこんな人ばっか、いそうですよね文章演習講座って。

文章から遠ざかる花のOL

 Aクラスに申し込む時、さんざん悩みました。私なんかが受講してしまっていいのかなあ、と。「読む」イコール「漫画」 or 「新聞のテレビ欄」。「書く」イコール「友達へのメール」。このように私は、読み書きに対する概念の構造がいたってシンプルな花の独身OL(死語)であるわけなのです。正当&正統とされるような文章からは、学生時代のレポート以来遠ざかっているのです。だから文章演習講座などという、なんとなく敷居の高そうな教室に通う必要もないわけなのです。

ささやかな理由

 え? じゃあ何でお前が講座の推薦文書いてんのかって? まあ失礼な。私にだって崇高な向学心くらいあったのですよ。己のつたない文章を顧みるごとに胸が張り裂けんばかりに痛んで仕方なかったのですから。だから救いを求めてクリエイトの門を叩いたのです。するとどうでしょう。文章が上達するばかりか、私は人間的にも大きく飛躍することができたのです。……す、すみません。見栄張っちゃいました。まさか会社で友達にメール送ろうとしたら最初の一文字打つまでに2時間もかかって、夕方になってようやく打ち終えた10行ほどの代物も読み返してみるとあまりパッとしなくて、ふと冷静にデスク周辺を眺めると未処理の書類が積み重なっていて、これはやばい、ここはひとつ会社のために文章講座というやつに通おう、メールなんかチャチャチャッと打って素早く組織の歯車の一部に戻ろう、と考えていただなんてうしろめたくて言えなかったものですから。

惨め確実な私

 受講を決意したといっても、初日を迎えるまでは、どうしようかなあ、やっぱりやめておこうかなあ、とためらっていました。動機も動機ですし、眼鏡キラ~ンな人もたくさんいそうですし。たとえばこのHPや案内資料をさらっと流し読みしただけでも、○○大学だとか ○○試験合格だとかの単語がどっさり出てきますよね。怠惰な生活を送っている花の独身OL(だから死語)にはまるっきり馴染みのない単語が。だからもう怖くて怖くて、両耳おさえてきゃーっ!! ですよ、きゃーっ!! 耳元で見知らぬ人たちが囁いてくるんです。「キンキキッズだあ? くだらねーこと考えてんじゃねー」(注:私は年齢に負けず、ジャニーズに関する考察を趣味としているのです)劣等生確実!! 教室でひとり浮いてしまう惨めな自分の姿が目に浮かぶようでした。

文章に優劣はない

 そんな私も今やAクラスを無事終了し、 Bクラスにいたっては3セット(10回×3クール)も受講してしまいました。何を悩んでいたのかなあ、くすっ、結構かわいい奴だぜ俺様って。なんて、ベテランらしくデカイ面で昔の自分を懐かしく思い起こしたりもします。結局、教室に誰がいようが、大した問題ではありませんでした。他人の書く文章と、自分が書く文章との間に、優劣は存在しないのですから。特にBクラスに籍を置くようになってから、そう強く実感するようになりました。

けどちょっと最初はおそろしのBクラス

 Bクラスでは、実際にメンバーがそれぞれ自らの作品を持ち寄り、あーでもないこーでもないと感想を述べ、問題点を指摘し合います。おっそろしいです。こっぱずかしいです。いくらAクラスで基本的な文章マナーや好ましくない文例をたくさん具体的に教わったとはいえ、きちんと守れている保証はないですし、提出した作品のどこを突っ込まれるかもわからないわけですから。頭ではわかっていたつもりでも、実際書いてみたらサッパリなんて、いくらでもあることですし。難しい言葉をよく知っている高校生もいるし、論理的な考え方をする会社員の方も、素敵な表現を豊富に持っているご婦人もいます。もちろん、私のようなド素人から見ると「もしかしてプロ?」と尊敬してしまうくらい文章の上手い方もいらっしゃいます。

唯一無二の自分

 それにひきかえ、私はどうでしょう。毎日のほほんと暮らしていて、履歴書に書けるような特技もなくて、本をたくさん読んでいるわけでもなくて、人生経験が豊富でもない。仕方ないから腹踊りでもしてればいいのでしょうか。そんなの絶対イヤです。嫁入り前なのに。だから見つけました。私にもできそうなこと。それは、自分なりの考えを、素直に伝えることです。ごくごく当たり前ですが、世の中には自分と全く同じ人間はいません。ですから文章を書く時も、他人の文章を読む時も、自分の抱いた考えや疑問、イメージにできる限り近い言葉を探し、忠実に伝えようと努力することで有意義なものが生まれるはずですし、私の場合はそうすることでしか講座に貢献できませんでした。アホねーちゃんですから。けど文章の上手い人は腐るほどいても、私という人間は唯一無二です。そう気づいて、ふっと心が軽くなりました。

もっと上手に

 もともと作家になりたいだとか、特技にしたいだとか、そんな滅相なことは考えていないのです。ならば思いっきり楽しんでしまえ、というわけで、このような暴走状態の文章が出来あがりました。全然、上手じゃないでしょう? 偉そうに掲載してもらっている割に。もし「さ、さすがだ……」なんて唸ってしまった方がいらっしゃったら、 Aクラスに早速申し込む必要がありますね。そして、Aクラスを終了したらきっと、私の文章にいちゃもんをつけたくなります。一文が長い、推薦文ならもっと書きようがあるだろう?! 俺なら、アタシならもっと上手く書けるのにっ、とウズウズしてきます。そうなったら今度はBクラスに挑戦してみてください。そして論文でも小説でも要約文でもいいから、どんどん作品を書いて、提出してみてください。 きっと上手な文章を書けるようになっているはずです。

上手よりも大切なこと

 ただ、そのあとは少しだけ考えてみてください。その文章が、言葉が、自分の考えをそのまんま反映しているのか、そして読み手が、確実に感じとってくれているのか、と。作品を公開し、互いに意見を述べ合うBクラスは、それを訓練する機会、知る機会なのです。少なくとも私はそう思っています。だから書き手の個性や持ち味、こだわりや雰囲気といったその人らしさが滲み出るような文章に出会うと思わず泣きそうになるのです(と、イイ人ぶってみた)。

読み書きの楽しさ

 受講から約1年半が経過しているというのに、書くスピードに大きな変化はみられません。デスクの上には相変わらず書類が山積み状態です。なかなかもくろみ通りにはいきません。読むスピードに至っては、速読を受けはじめてブイブイいわせてた(またしても死語)頃より格段に遅くなってしまいました。ただ、その分、書くことも読むことも楽しくなったんです。「らしさ」って、貴重ですから。「らしさ」に触れられる時間を大切にしたいですから。

受講のススメ

 とりあえず、迷っている暇があったらぜひAクラスから受けてみてください。大丈夫ですよ、文章なんか全然書いたことなくたって。国語が嫌いで理系になった人だって、なまじ自信を持ってる人よりずっと楽しめます。眼鏡をキラ~ンとさせる必要もありませんし。クリエイトは、私のような邪道な人間の文章の掲載を厭わない寛大な教室ですから。あなたらしくあれば、それだけでいいのです。