2008-12-14
いつもはつらつと、そしてきびきびとお仕事をされている、その、先生ご自身の姿で教え、諭して下さいました
個人的な話で恐縮ですが、12月10日(水)に母親が亡くなりました。享年82歳でした。
山形のいなかのあちらこちらから、携帯に留守電が入っているのに気づいたのがその日の夕方近く(仕事柄、マナーモードが常態です)。
あわてて電車に乗りました。
夜中の22時をすぎて、冷たくなった母親と会うことができました。
意識をうしなった状態で、たくさんのクダを通されてベッドに横たわっていた十数年でした。長い間の、妹らの看護にはただただ頭がさがります。
11日(木)、ずらすことのできない前々からの仕事の約束があり、1泊はしたものの朝発って会社に。
12日(金)、再び山形へ。すでに告別式は終わっていました。仏前には、弔電とともに弔辞がありました。そして、正面には、入院する以前に写真館で撮影したという65歳の母がいました。
弔辞の文章のなかには、こちらのまったく知らない職業婦人としての母の元気なときの姿がありました。
喪主である妹の了解を得て、1部コピーしてもらいました。
母の名前や、書いていただいた方のお名前など、狭い地域ですのでところどころの部分は略字にしています。
弔辞
W子先生、長い間病床に伏しておられ、心の中ではいずれお別れの時が訪れることは覚悟しておりましたが、それがとうとう現実のものになってしまいました。
わたしが、W子先生に初めてお目にかかったのは、三十三年前の四月、A小学校に担任として赴任した日でした。あれ以来、公私ともに本当にお世話になりました。
学校での先生は、いつも凜として、子どもたちに真っ正面から向き合っておられました。叱るときは厳しく、しかし決して子どもたちを見放さない、そんな先生のもとで、私は若い教師時代を過ごさせていただきました。
放課後、教室で子どもたちの作品を飾ったり、ノートを見たりしている姿が今でも思い出されます。また、子どもたちが書いた日記や作文全てに丁寧な温かい言葉を入れ、厚さが五~六センチもあるような文集を毎年作っておられました。きっと今でも子どもたちの宝物になっていることと思います。
何をしても満足にできない私たち若い教員に、きっとさぞお困りだったろうと思いますが、先生は口うるさくおっしゃられたことはありませんでした。いつもはつらつと、そしてきびきびとお仕事をされている、その、先生ご自身の姿で教え、諭して下さいました。
私生活の上でも、食事もろくに準備できない私をご自宅によく連れていってくださいました。旦那様と一緒に作った野菜をいただいたり、おいしくできあがったおかずをいただいたり、ときには、一緒にごちそうになったりして、ともすればくじけそうになる気持ちを励まし、支えていただきました。
退職されてから、Yに居を構えられましたが、幸いなことにそこが、私と同じ町内で本当にありがたいご縁を感じました。
結婚して、学校と家事と子育てにてんやわんやしている私をみかねて、夕方、お総菜やおいしい漬け物を何度も届けてくださいました。そして、そのたびに「風邪引いてねぇがー」と優しい言葉をかけてくださいました。見よう見まねで玄関に飾った花をちょっと直して下さって、「習っていねくても上手だあ。いいごど、いいごどぉー」とほめていただいたことも忘れられません。
本当にたくさんのご恩をいただきました。何一つご恩返しもできず、また、感謝の気持ちもきちんと伝えてこなかったことがくやまれてなりません。今日、ここに心からお礼を申し上げます。
W子先生、今まで本当にありがとうございました。
そして、どうぞごゆっくりおやすみください。ご冥福を心よりお祈りいたします。
平成二十年十二月十二日 S.
もちろん、書いていただいたS先生には、電話でですがご了解をいただいています
真
