2010-12-25
あなたの人生で一番衝撃を受けたエピソードを書け〈2〉
(承前)
Q.3 宿題の「要約」はどうでしたか?
A.3-1 「授業前」 著者の文章は時代を感じさせない、読みやすいものだった。文章の構成、枠組みをつかもうと必死になって読んだ。要約は書いても書いても何か足りない気持ちがして納得がいかない。気がつくと半日が過ぎている日もあった。筆者の明確な主張を断定できない読解力のなさを痛感した。何回も文章を読むうちに、文章についての私の考えが煮詰まってしまい、私なりの解釈が入ってしまった部分もあるような気がする。筆者の主張から離れてしまったかもしれない。唯一自分の手を動かした宿題だったので、プレッシャーも大きかったが、良い経験となった。最後の授業では自分の文章が他人の目に触れてしまう恥ずかしさもあるが、考えた分、学びや気づきが得られるだろうとわくわくしている。文演メンバーがどんなものを書いたのか読めるのも楽しみだ。
A.3-2 「授業後」 最後の授業では文章の印象がまたがらりと変わるような視点を学んだ。「この授業のために文演はある」という先生の言葉の意味をひしひしと感じた。上手な文章は内容に自然な強弱がつけられ、自分の主張を読み手の意識の中に忍び込ませる工夫が凝らされていた。読者は自然に内容に入り込んでしまうため、意図的に感情や考え方が操作されているようには感じない。私自身もこれまで良い文章を読むと、私が考えてもみなかったことが題材となっていても、その内容に共感できるような感じがしていたのは、筆者の創りだした空気が私にとって自然に感じられるためであったのだと気づかされた。上手な要約を読み、要約をした方の個性の溢れる文章のなかに筆者の伝えたかったポイントが自然と溶け込み、要約文さえも1つの作品として読みごたえがあると感じた。上手な要約を読んだ後に改めて自分の要約を読み返してみると、筆者の言いたいポイントだろうと思う部分を抜き出し、並べただけの味気のない、淡白なものに感じた。
私はこれまで自分の主張、結論にいかにして結びつけるかに重きを置き、文章を書いていた。その文章は押しつけがましく、読み手に圧迫感を感じさせるようなものになっていたと思う。読み手にとって想像力を膨らませる‘活きた’ものに感じることができる文章、そして私の考え方にも読み手が自然と納得できるような文章を書いてみたいと思った。いつか私らしい文章でありながら、他人に共感を与えられるような文章を書けるよう、文演で学んだことにこだわりながら、練習を積んでいきたい。
Q.4 全体的な感想をお聞かせください。
A.4 文演のあった日の夜は興奮でなかなか眠ることができなかった。身体はぐったりしているのに、頭だけが普段では考えられないくらい熱を持ってフル稼働しているようだった。そのようなとき、その思いを文章にできたらいいのだが、手を動かすより先に感情で押し流され出てきた言葉が口から溢れた。
帰って来るなり、私はコートも脱がずに食卓の椅子にどさっと腰を下ろした。「ふぅっ」と溜まった気持ちを吐き出すように溜息をついた。母は私に「疲れたでしょ?」と訊ねながら私の隣に座った。「いや……、面白かった」と、お酒で酔っ払っているかのように緩んだ笑顔で母に答えた。そして「自分の内面の思いを言葉に出来るってすごいことだね。私はそれができずにいつも感情だけで突っ走るからなあ……」と言った。
「どういうこと?」母はやわらかい口調で私に聞いた。
「他人に何かを伝えるとき、常に冷静な自分を持ってないと、感情ばっかりが先走ってうまく言葉に出来ないんだなと思って。私みたいに文章を書き慣れてない人の作文読んでるんだけど、読んでいても全然情景が浮かんでこないんだ。書き手もなんとなく自分の思いを書ききれてないことが分かっているから‘非常に’とか‘とても’とか誇張表現を使って、書ききれてない思いを補おうとしてるのが読み手にはうるさく感じるんだよね。それで最後に‘だから〜したい。’‘〜だと願っている。’とかを使って無理矢理文章をまとめ上げて終わらせる。伝えたいって先走る気持ちをまず自分でコントロールして、読み手の気持ちに配慮しながら、順序立てて発信しないと読者が話の流れに入り込めなくて置いてかれちゃうんだよね」
「なるほどね〜」
「お母さんとか家族と話しているときはさ、とにかく私の話を聴こうとしてくれるし、言葉が足りなくても、家族だから伝わるってことあるじゃない? でもそれが他人に伝えようとするときは他人は考え方もいろいろ違うし、まず私の話が耳に入る状況じゃないかもしれないし、私の話をそこまで聴こうと思ってくれてるわけでもないだろうし。でも私は家族と同じように部活の子に一方的な言葉をぶつけてたんだと思う。特に部活中は自分も気分が高揚してるし、相手も高揚してるし、感情で湧き上がってきた言葉と言葉がぶつかり合う感じになっちゃうんだよね。自分がつくづく自分本位で感情の生きものみたいだったなと思ったよ。でも言葉を自由自在に操れたらすごくすっきりするんだろうな〜」
「何か相手に伝えたいって思いが浮かんだらちょっと書き出してみるとか、まずは文章にして整理してみたら? いきなりうまく話せるようにはならないわよ」
「そうだね、何か伝えたいことが浮かんだら、まず書き出してみるよ。書きながら相手にどうやったら伝わるか考える練習積めば話し方も変わるかもね」
気持ちが高ぶっていてとにかく思っていたことを一気に母にぶつけてしまったが、母は熱心に私の話に耳を傾けてくれた。
「でもよかったわ」母は言った。
「えっ?」「今日は疲れてるから、行きたくないとか、言わないもんね。思い切って文演受けてよかったわね」「ほんとだね。今は文演行かないと土曜日が終わらないって気持ちだもん。そういえば今日は部活もやってきたんだった」「明日も練習でしょ!? 早く寝ないと」「そうだね。はあー、部活行くのが嫌になる。これは冗談だけど、私の中で文演と部活の比重が逆転しちゃってるみたい……」
まだ話し足りない気持ちもあったがその気持ちを抑えるように、でも少しすっきりした気持ちでまた「ふぅ〜」と大きく溜息をついて、椅子から重たい腰を上げた。身体も頭も少しリラックスしなければ眠ることができないだろう、私はお風呂に入る仕度を始めた。
何か新しい発見や気づきをすると、新しい世界を見ることが出来た興奮で胸が一杯になる。文演はまさに私に文章の新しい世界を見せてくれる時間だった。そして言葉の力、可能性に初めて気づかせてもらったような時間だった。なぜ私の言葉が部活でチームメイトに伝わらなかったのか気づきもあった。私は何か感じたこと、思ったことがあるとすぐにそれを口に出して相手に伝えたくなってしまう。その言葉はまさに感情のままに溢れ出たものであり、自己本意で一方的な、相手の状況や思いを酌んでいないものだった。私の言葉は相手を身構えさせ、バリアを張らせてしまうものだったのだと思う。文演を通して学んだのは書き手と読み手、話し手と聴き手、発する側と受け取る側の双方の視点から見ることのできる客観的な姿勢だ。テキストで筆者が‘内輪’と‘外’の違いを書いていたように、お互いを理解している家族と話すときとは違い、他人に向けて話すときは相手に配慮した話し方がある、ということ。分かっているようで全く分かっていなかったことに気づいた。これまでの自分を恥じて反省した。
私は文演で‘知る’機会を得た。それを自分のものにしていくには学んだことを意識しながら、まずは読み手となる経験を積み、良い文章、悪い文章を見分けられるようなりたいと思う。文章を学ぶことでこれまでの自分の態度を省みた。そして自分の内面ばかりに目が向き、他人や物事と主観的な態度で向き合っていた自分に気づいた。熱しやすく冷めやすい私の性格についても前に触れたが、感情的な自分を冷静になだめることのできる自己を育て、そして私の外側にあるもっと広い世界に目を向けていけたらと思う。そのためにたくさんの文章や経験豊かな方々と接する時間を大切にして、興味の幅を広げ、さまざまな考え方を取り入れ、観察力を養っていきたい。また今の私の吸収力を向上させるには速読で自分を鍛えるしかないと考えている。文演を受けたことで速読に対するモチベーションも高まった。
「大学生活何をやってきましたか?」と訊ねられたら、「部活です! 部活だけでーす!」と答えるだけの学生生活になってしまったかもしれない……。今年の4月までは。
大学4年生になった私は中学生のとき、「ノー!!」を突きつけてしまったクリエイトに偶然にもまた巡り会い、通うこととなった。ギリギリセーフでクリエイトに駆け込むことができたような気持ちだ。
先生から「兄妹3人も通わせてくれたご両親に感謝してくださいね」と言われたとき、「はい……」としか答えることができなかった私。両親への感謝の気持ちを忘れず、これからも速読のトレーニングに励んでいきたい。
文演から、何事にも前向きにチャレンジしていく、勇気を頂きました。そして、私は変わることができるチャンスを松田先生から頂いたと思っています。貴重な時間をありがとうございました。
Merry Christmas






真
※クリエイト速読スクールHP
