2007-01-29
もりぞう爺さんの話(下)
承前
もりぞう爺さんの話(下)
小川 なおし
こんな楽しみを与えてくれたもりぞうに、礼をしなくては、と思うこともあった。
実際に、プレゼントを贈ったこともある。もしかしたら食べるのにも困っているかもしれないと思って、給食の残りのパンをあげたのだ。直接手渡すのは気恥ずかしいので、もりぞうの家に向かって投げつけていた。一度「こらーっ」と、もりぞうでない人の声がして、逃げたことがある。冷静に考えると、マーガリンのついたパンが、半かけらの夏ミカンと一緒に壁にぶつけられるのだから、怒って当然だ。でも、こっちは親切のつもりだったのである。ただ、何日も寝かせておいて青カビの生えたパンを投げたことがあった。あれはちょっとまずかったかもしれない。
こんなもりぞうに対して、かわいそうだと感じたことが一度だけある。
もりぞうには決して手を触れないというぼくたちの暗黙の了解を無視して、乱暴者の渡辺が、もりぞうの背中を足の裏で思いっきり蹴っ飛ばしたのである。もりぞうは前のめりに崩れ落ちた。見ていたぼくたちは声もでなかった。それはもう、いつもの楽しいひとときではなかった。ヒンヤリとした空気が背中を上下に走り、それから、得体の知れぬ熱い思いが湧き上がって来たのである。そうだ、もりぞうを助け起こしてやらねば。
ぼくはもりぞうの方に、一歩一歩近寄っていった。倒れてブルブル震えているもりぞう。後ろ姿だからわからないけど、悔しくて泣いているのだろうか。渡辺がぼくに向かって何か言ったようだったが、もうどうでも良かった。もりぞう立ち上がってくれ。今までみたいに、ぼくたちを追いかけてくれ。ぼくは踏み出す足の一歩ずつに、祈りを込めていた。
もりぞうにあと一歩で触れられるという距離まで近寄ったぼくはふいに立ち止まった。もりぞうに危険を感じたわけではない。ただ、酸っぱいような甘いような腐ったようなそのにおいに、我慢ができなかったのである。いったい、何のにおいだ?
鼻の奥のほうで、記憶を探ってみた。
そうだ、けもの、けもののにおいだ。その澱んだにおいが、もりぞうをおおっていた。
先には進めなかった。ぼくはそのままの体勢で、後ずさりしていった。右足、左足、右足、左足。地面と靴の間で、小石が転がっていく。
ズル、ズル、ズルルルルー。
もりぞうの姿はだんだん遠く、小さくなっていった。
